要約 シェーラー『宇宙における人間の地位』

〇ユクスキュルの環境世界
〇精神と衝迫の二元論と宇宙の生命序列
〇精神は対象化の能力として超越であり、ゆえに人格として存在しうる。
〇ニーチェ、ショーペンハウアーの議論
〇衝迫と精神の共同性

 シェーラーはユクスキュルの「環境世界」の概念に刺激を受けて独自の哲学的人間学を構築した。環境世界とは、生物が各々独自にもっている目的手段連関である。ユクスキュルはこれによって生物の機械論的運動観と、また擬人的生命観の両者を排除しようとした。
 シェーラーは環境世界と「世界」という二つの地平を考える。環境世界とは上述の通り生物に必須の目的手段連関であるが、世界とは、ほかの生物が環境世界に埋没して生きる中で、人間のみに許された開放的な地平である。人間には「世界開在性」があるともいわれる。
 衝迫と精神の両極がこの二世界の区別に関連する。すなわち、生物は全般的に自らの衝迫に従って運動し、環境世界に適応しているが、人間のみが精神という次元を獲得している。精神とは自分が「いまここ」にあるという意識、対象化の能力である。対象化は必然的に世界全体へ、理念全体へと広がっていくから、精神は理念化の能力でもある。
 この衝迫という概念はショーペンハウアーが世界の本質とした意志を端緒にもつ。ニーチェはさらにこの意志の盲目性を取り払い、パースペクティブという認識論的枠組みと合体させた。ニーチェにおいては力への意志のみで世界はできているとされる。シェーラーは衝迫と精神という二元論においてそれを継承した。宇宙において、人間が精神、人格として生きることのできる存在であるということを示そうとしたのである。ただし、衝動、生命という原動力がなければ精神も存在できず、両者は共同して人間存在を形作っているといえる。

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