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未知のストレスと慣れの獲得

市の田植えイベントの募集に申し込み、長男と体験してきた。

以前から農業体験を「不真面目な仕事」と捉え、重視している。ここでの「不真面目な」とはネガティヴさを意味していない。本来、知識・体力・マーケティング力などを必要とされる農業は極めてテクニカルなものであり、素人に手出しできるものではない。我々は農業体験施設で収穫などを楽しむが、これは「いいとこどり」だ。

我々は極めて不真面目に、遊びの一環で、プロが管理する農業に触れる。仕事の背景に潜む様々な困難は覆い隠され、面白さが凝縮された部分を掠める。しかしこれは逆から捉えなおせば、いかなる仕事にも「快楽」として関わるものを楽しませる側面があるということに他ならない。「仕事は大変だ」「仕事は厳しい」といった文言は真実であるが、時として不真面目な角度から仕事の快楽を掠め、遊びとの境界を曖昧にすることが必要となる。

田植えに臨み、5歳の長男が「裸足になること」「泥の中に入ること」を極端に嫌がり始めた。田植えで何が行われるかは、大人にとっては自明のことだが、子供には「未知」のものとして立ち現れる。靴下を脱ぐとどうなるのか、泥の中に入って大丈夫なのか、そのような「未知」がストレスとなり、子供は拒否反応を起こす。

「未知」を突破し、怖がりながらも田圃に入ると、徐々に泥の中で動くことに慣れていく。そうなるとあとは夢中で田植えが始まっていく。

「未知」は時として期待をはらみ、あるいは恐れを感じさせる。プルーストの小説の中で未知の女性が豊な想像の対象となることや、逆に嫉妬を喚起させる対象となることと相通じるものだ。そして「未知」が解消され、徐々に慣れていくと、次に「飽き」がやってくる。息子は1時間半を楽しくやり遂げたが、周囲では音を上げる子供の姿が見て取れた。『囚われの女』に見た習慣がもたらす「倦怠」というテーマがここに横たわる。

未知の恐怖、そして慣れの倦怠。新たな仕事への不安やだるさ、日々続く仕事への飽き。すべては一本につながっている。他方で水のはった田圃の涼しさや風の心地よさといったポジティヴな喜びがある。僕らが「不真面目な仕事」で出会った田植えの快楽を、自らの仕事に照らすと何が見えてくるのか。「倦怠」を乗り越える手段は「仕事」を「遊び」と捉えて楽しんだ僕らの「不真面目さ」の中に潜んでいる。

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