手間のかかる作業を一つずつこなしながら

研究費は事後申請となるため、春期休暇中の領収書を一つずつ処理していった。考え方を変えるとこれらは研究ではなく、それに付随する作業だ。そういったものをまったく無視し、誰かにやってもらうという考え方もある。しかし自分がアウトソーシングしたところで、その作業は無くならない。

ある仏教研究者が、大学院生の頃に有名企業の会社員に「マウンティング」されたらしい。仏教研究者が研究をしているあいだに、有名企業の会社員は大金を稼ぐそうだ。だがそこで仏教研究者は反駁する。仏教研究の極点が「サンスクリット語を丹念に読むこと」だとすると、有名企業の会社員の作業は何なのか。結局のところ、パソコンに向かって何かを打ち込んだり、名詞を持って人に会ったりといった行為が続く。

極点を見れば僕らの仕事は大して変わらない。大学教員はパソコンの前で資料を作り、研究費を申請し、授業と言いながら声を出して機械を触る。その一つ一つの行為に派手さはない。スポーツ選手であっても、アーティストであっても、その行為の極点は地味なものではないか。

研究でフランス語をめくる。授業ではいつも初修のフランス語でABCを教える。授業で使うパソコンで書類を作り、事務仕事を進めていく。行為の極点に相通じるものがあることで、僕らは異なる業種の人と繋がることができる。異質な文化を超えるのは、具体的な行為であり、それはどのような場所に身を置いていても、さほど変化しない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?