病院で身体性について思いを馳せながら
ちょっとした手術を控えているので、病院に検査に行った。問題なく進行し、手術も日帰り、二日もすれば職場に復帰できる。検査も終わったので明日から少しだけ休みを入れ、家族サービスでもしてこようと思う。
病院の待合室で『モノノメ』2号を読んでいた。
乙武氏の義足プロジェクトを巡る対談が非常に興味深い。
先日も書いたように、僕は身体を「共通の基盤」と見なしていた。これは文化が身体において再現されるゆえ、自他に大きな差がないということを指摘する文脈において主張したことである。人間の身体の共通性ゆえ、異文化はそこまで大きな逸脱を起こさない。これはある意味で真理だと思うが、しかし本記事を読むとこの結論もまた粗いものだということを実感する。
乙武氏は四肢が欠損している。しかしその中に残っている筋肉や機能もある。僕らは残っている部分を「同じ」だと考える。しかし40年余りの生活の中で、残っている部位は乙武氏のライフスタイルに最適化し、極めて個性的な身体が作られていく。この事実は、身体の共通性を語る際に一定の留保が必要であることを意味している。
たとえば僕の病は僕のライフスタイルを歪め、その状態を抱えて日常が回転するように身体が最適化していく。また、プロジェクトの立ち位置で常に考え直しを迫られるため、おそらく記憶のパターン、発想のパターンが過剰適応している。その状況を反芻せぬままに身体の共通性を論じ、発想の共有を図っても、取りこぼす要素が多すぎる。考えてみれば当たり前のことだ。
身体の多様性を認めると、改めて個々で文化の解釈に差がでることが理解できる。「個人差」というお馴染みの概念が、今改めて文化学の前方に迫ってくる。文化が接触し、変容する(文化触変)の過程において、決して「変わらないもの」が存在するわけだが、これはミクロレベルにおいては身体の個人差において立ち現れる「再現不可能性」と通じているように思える。
乙武氏が歩くということは、身体的特徴がテクノロジーにより画一化されることでもある。だが問題はテクノロジーが入り込む以前の「非画一的状況」にあるだろう。テクノロジーが平板化させた世界の前に立ち止まり、デバイスに向き合う個々の人間をじっと眺めた時にこそ、その身体的差異が浮かび上がるのではないか。そのような着想を得て、少しだけ休みに入ろうと思う。
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