散髪による個性の発露、共通文化における普遍性の歪み

以前、大学のイベントで知り合った方が理容師であったため、お誘いを受けてお店にお邪魔した。

https://www.instagram.com/larkbarbershop/

Instagramの上の方に僕の「ビフォー/アフター」が載っている。結構印象が変わったためか、SNSはいつになく反応がよかった。


上の写真には別の問題がありそうだが

あまりこのようなところに頓着しないため、面白い体験だった。

ところでボードレールはロマン主義を論じたサロン評において髪型をはじめとするファッションに注目し、一過性の美の意義を述べた。上の写真に載っている髪型は、数年前であれば成り立たなかったかもしれず、この時期のみの「美」に連なる。

移ろいゆくものを論じるのは非常に困難である。先日「アメトーク」でファッションに力を入れている芸人が特集されていたが、見ていてもまったく理解できない。ロングコートの下にスウェットを羽織るのが流行だと言われても、その意義が伝わらない。同時代の人間にとっても流行は理解しがたい。ファッションが好きな人間、ヘアメイクが好きな人間は、そこに個性の発露を試みる。それが集団の美と重なりつつも、多少の差異を孕むことにより、一つの文化を背景とする「個性的ファッション」が創造される。

数年前に芥川賞を受賞した村田沙耶香の『コンビニ人間』は、御しがたい個性と共通文化の交錯を描いた。

幼少期から社会とのズレを自覚していた主人公が、コンビニのシステムを体内化することにより、社会との結節点を持ち、他者とのコミュニケーションを少しずつ正常化していく。ここにおいてコンビニは現代日本文化の共通文化の表象として機能している。支給される制服と、華美になりすぎない髪型に、明朗な挨拶と笑顔によって店員が均質化される。主人公はアルバイトの同僚のディスクールを巧みに模倣することにより、コミュニティの中に自らの居場所を見出す。ここには個性を発露する奇抜なファッションも髪型もない。バンドを組んでいるアルバイトは髪型をピンクに染めたがっているが、店の規範をなぞり、許される範囲に留めている。

しかし共通文化の普遍性を絶対視したところで、共通文化は最大公約数に過ぎない。コンビニに過剰適応した主人公は、歳月の中で再びズレを認識する。それを是正しようと試みる主人公は、社会における別種の普遍とも言える「結婚・就職」のシステムを模倣しようとするが(詳しくは作品を読んでほしい)歪な関係性は持続せず、自らを疎外したはずのコンビニの表象が再び主人公を惹きつけていく。

むろん本作は小説であるゆえ、主人公の性質は極端であるような印象を受ける。だが共通文化への過剰適応は決して我々に無関係ではなく、むしろ一般的な問題だ。たとえば僕らは制服を着て「学校」のシステムを体内化してきた。リクルートスーツを着て「社会」の規範をなぞる例も挙げられる。そこではファッションもヘアスタイルも「規範」の制限を受け、我々は大量生産のための「規格」に自らを当てはめていく。

コンビニという資本主義社会の産物は、皮肉なことに共産主義にも似た画一化をもたらし、主人公は「極端に平均化」する。その姿は共通文化の普遍性を無批判に受け入れ、いとも簡単に自分の固有の価値観を共通文化で尊ばれるものとすり替える我々と重なっている。では僕らは何を持って規範から逸脱するのか——そこに共通文化の価値観を前提としながらも、差異化を図るファッションやヘアスタイルの意義が存在する。奇抜なファッションの芸人を笑う自分は、画一化の檻の中から外を指さして笑っているに過ぎない。それゆえに画一化のアンチテーゼとして、僕はしばらくこの髪型を貫くことにする。

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