「正義」を超えた「ともだち」による世界の創造

今月も終わりに近づいているが、春は学会シーズンでもあり、数週間前に沖縄まで出張した。僕はあまり遠方に出歩くのが得意ではないため、沖縄に行くのも初めてのことだった。フランス語教育学会の場を借りて、平和教育のためのシンポジウムを企画したり、グループで運営しているオンラインコミュニティの学習効果について発表したりと、短いながら濃密な時間を過ごした。

平和というタームは、地上戦が繰り広げられ、他国の支配を受け、今なお基地と共存する沖縄において特別な意味を持つ。だが僕らの平和の語りは自分の「正義」と関連する。「正義」には理屈がなく、異端者の意見は耳に届かない。かくして平和を語る行為それ自体が争いへと繋がっていく。僕らにできることは、自分の専門とする研究分野からの細やかな提案に過ぎない。その内容については別の機会に譲ることにする。

忙しい中であれこれと本を読んだり映画を見たりしてきた。春から初夏にかけて、浅井いにお原作『デッドデッドデーモンズ デデデデデストラクション』の前後編が公開された。宇宙船が東京上空に現れたことから始まる終末の物語は、SF的世界観を装いながら、僕らの個々の「正義」がいかに始末に負えないものであるかを描いたものだ。

宇宙船が上空に停泊して数年が経過した東京は、普通に考えると滅亡を眼前に迎えている。しかし政府発信の安全情報に流された多くの人々は、異常事態を日常として受け入れ、平和な日々を過ごす。宇宙人=侵略者は容易に姿を現さず、政府を疑う声、宇宙人との共存を図る声、危機を叫ぶ声が乱れ飛ぶ。人々は自らの信仰を交錯させ、幾重にも区分された陣営は互いを受け入れることもしない。

主人公・小山門出と中川凰蘭は、世論が錯綜する危機の時代にあって日常へ埋没していく。小学校時代、周囲に馴染めない門出は、凰蘭に心を開くことで精神的な安定を手に入れる。しかし門出はふとしたことで超自然的な力を手にしてしまい、その幼稚な「正義」はやがて周囲に暴力を振りまくことになる。門出の「正義」は凰蘭のために喚起され、他者はその力によって容易に傷つけられる。だがむろんそのような利己的な正義を凰蘭が喜ぶはずもない。結果的に二人の関係は引き裂かれ、物語は悲劇的な展開を迎える。そして凰蘭はその出来事の「修正」を試み、その結果地球を取り巻く要素が少しずつ変化し、結果的に東京に宇宙船が現れ、世界は危機に陥ってしまうのだ。

結局のところ、世界の混乱は利己的な人間同士の衝突が作り出す。凰蘭と門出の「世界」は二人の周囲にしか存在せず、ごく小さなものだ。小学生の彼女たちにとって、互いの存在は絶対的なものであり、世界の未来より優先されるものだった。その利己性は、世界の真実を隠蔽し、「平和」を捏造することで自らの立場の安定を図る政府と大差ない。宇宙人=侵略者は非力であり、地球人の武力によって次々と殺されていくが、彼らも亦地球を意のままにしようと侵略を試みた存在だ。様々な立場に身を置く個人が、自分の「正義」を補強してくれる存在を探し、仲間を「絶対」のものとして対立を深める様が戦争であるならば、それは僕らの日常と地続きだ。「平和」とは戦争や混沌のの対義語ではなく、平和と戦争は分かちがたく繋がっている。

物語終盤、宇宙船は制御を失い、人類を道連れに崩壊する危機を迎える。制御を取り戻すキーワード「ともだち」は、対立する地球人と宇宙人のあいだに放り込まれたものだ。門出はクラスから孤立し、凰蘭もまた誰かと仲良くなれない子供だった。異質な世界に属する二人は「ともだち」として世界を刷新する。二人の世界は日常に終始するが、やがてその関係は他の「ともだち」、そして宇宙人=侵略者へと拡がっていく。見知らぬ二人が「ともだち」になる--あまりにも小さな世界の拡張だ。だが「正義」の対立を繰り返す人間にとってはどれほど困難なことか。個々の「正義」で「平和」を語る僕らは、結局のところ異質な人間と決別し、世界に様々な対立を生み出していく。遠い国の戦乱も、宇宙船の襲来も、対立に満ち溢れた僕らの日常と本質的には違わない。破壊され尽くした世界の中で、「ともだち」と手を取り合う門出と凰蘭によってこそ、世界が新たに創造されるのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?