不条理に対峙し、新たな価値を創造するか、あるいは不条理に埋没するか

コロナ前は学内のトレーニングジムに通っていたが、教員の使用が制限されて三年間が経過した。ようやく五月から使用できるようになり、久しぶりにトレーニング器具での運動を楽しんでいる。

コロナ禍の小説はなかなかその出口が予見できなかったためか、コロナを描いたものがさほど多くない。その中で『成瀬は天下を取りにいく』では、マスクを余儀なくされたり、学校行事が制限されたりといったリアルな日常が主人公の行動の背景に組み込まれている。

主人公・成瀬あかりは目標のために努力を惜しまず、周囲から浮いてしまうことを何とも思わずに生きている。中学生ではコロナで部活がなくなったため、地元の西武デパートの閉店に合わせて連日テレビに映り込んだり、M-1への出場を企てたり、高校に入学してからは競技カルタを極めようとしたりと、目標を立てては全力で遂行していく。そのようなキャラクターは当然ながら中学や高校では歓迎されないのだが、不思議と周囲を巻き込んでいき、自分のポジションを確立してしまう。

マジョリティによって安定(ホメオスタシス)がもたらされた文化の中に、成瀬という異分子が出現する。そのダイナミズムがやがて平衡状態を解体させ、新たな文化を創出する。成瀬の飽くなき挑戦により、マジョリティが安定させた文化はわずかに拡張されるのだ。

この小説を読みながら、やっと庵野秀明監督の『シン・仮面ライダー』を鑑賞することができた。

主人公・本郷猛は過去の通り魔事件によって父親を喪失し、悪と戦うために力を欲する。その経験により、科学者が本郷を改造人間に作り替え、仮面ライダーが完成する。

作中において、ライダーのアンチテーゼ「ショッカー」は、不条理の中にある人間の「幸福」を追究する。たとえばテロリズムなどで家族を失った被害者は、絶望の中で人類に向けての復讐を願う。この場合、被害者の幸福は人間の滅亡だ。ショッカーは絶望の中にある人間の歪な幸福を肯定し、その実現のためにオーグメント(怪人)を生み出す。

他方のライダーは、父親を通り魔に殺される不条理に見舞われながらも、警察官であった父が他者を救おうとした姿勢を倫理の軸として、「優しさ」により人類を救おうとする。ここに不条理を巡るライダーとショッカーの対立軸が完成する。

だがライダーとショッカーによる二つの極の対立は、何とも言えない違和感を覚えさせる。ショッカーが不条理に見舞われた人間の短絡的な破壊衝動を肯定するものだとすれば、ライダーが目指すべきは不条理の超克ではないだろうか。だがライダーは不条理に流される人間の破壊衝動を止めるだけであり、不条理は社会に残されたままだ。ライダーが真に対峙するべきは、ショッカーを生み出す要因となった人間の「悪」であるはずだが、本郷猛は「優しさ」という言葉によってその議論を中断する。これはショッカーに家族を分断されたヒロイン・緑川ルリ子も同様であり、不条理に耐えきれない幼児性を発露しながら、本郷の「優しさ」に感化され、家族の「愛」を取り戻すといった(言い方は悪いが陳腐な)展開が続くことになる。

人間がもたらす不条理は、時として複数の人間を犠牲にする。東浩紀が指摘するように、「悪」がもたらす被害の深刻さと加害者の意識は、なかなか釣り合わない。本郷は家族を喪失し、深い悲しみに見舞われるが、通り魔にとって本郷の父は多数の被害者の一人であり、殺害に深い意図はない。悪は軽く、他方で犠牲は重く、両者の意識が釣り合うことはない。その「釣り合わなさ」の苦しみを埋めるものがショッカーの求める「幸福」であるならば、ライダーはそれに変わる「幸福」を築かねばならない。しかし価値創造ができないのがダークヒーローの宿命だ。結局のところ、ライダーは幼児性を抱えたルリ子と、ショッカーから秩序を回復しようとする日本政府の思惑に絡め取られるかのように戦いを続ける。不条理は相変わらず放置されたままだ。

マジョリティが安定させる世界の中にあって、大衆は弱者に石を投げ、秩序から遊離した悪が破壊行為を行う。成瀬あかりの孤独な戦いは、新たな価値の創造による不条理の超克だ。仮面ライダーの孤独な戦いが成瀬を後押しすることはなく、不条理は放置され、「怪人」は社会の至るところに現れる。ショッカーのアンチテーゼは、不条理に抗う価値の創出に他ならない。M-1を目指し、競技カルタを極めようとする成瀬あかりの創造性は、ライダーに与えられた強大な力をも凌駕する可能性を秘めている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?