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鉄道的、あるいは自他の関係を動的に捉える

昨日から社会が混迷を極めているようです。「社会」という表現が適切なのか、「世論」を使用すべきか、迷うところです。

この二語のあいだで迷う理由は、昨日の「休校要請」の裏側に「自己の問題」が潜んでいるように思えるからです。今週に入ってから様々なイベントが自粛に追い込まれる中で、社会に不満を抱き、何事かの発言を行った……僕だけではなく、数多くの人が同じことをしたはずです。

社会への不満に乗っ取られた「批評」は、WEB(SNS)によって大きな波となります。東浩紀『一般意思2.0』では政治的空間を「ニコ生」に挙げることで一般意思に気を配る、という提案がなされていますが、これはあくまで思考実験でしょう。ですが実際に我々の不安や不満を帯びた批評が「世論」の一端を構築し、その先に昨日の「要請」があると考えると、この混乱の裏側には我々(少なくとも僕自身)の姿が見え隠れしています。

今の僕らに必要なことは、衝動的な不満の発信ではなく、ましてや誰かの発言をなぞったカギ括弧付きの「批評」ではなく、この現象の中で思考し、前に進むことでしょう。

このような前置きから「鉄道的」という概念について考えたいと思います。「鉄道的」というテーマが現在の特効薬となることもなければ、時事として適切であるかは不明です。しかし「鉄道的」なる思考に物事を漸進させるヒントが潜んでいるように思えるのです。

僕の趣味の一つに「鉄道」があります。

鉄道好きのキャリアはさほど長くありません。近畿大学に着任し、大阪にやってきたときに、当時1歳の息子が近鉄を見て歓声を上げ、以来「子鉄」としての人生を歩み始めました。そのような息子についていくように、夫婦で鉄道を学んでいきました。

もっとも好きな瞬間は、ターミナルから伸びる線路を眺めるときです。近鉄上本町から眺める線路は、遠く三重や名古屋まで繋がっています。目の前の線路と遠方の繋がりを想像する瞬間がとても好きです。

「鉄道的」とは何か。僕はこれを「人と人のあいだ」を捉える一種の視点(めいたもの)として構想しているところです。

考えてみれば「ターミナルの妄想」は変です。なぜなら「目の前の道が果てしないところまで繋がっている」というのは「道路」も同じだからです。言ってみれば今目の前にある小さな路地は、完全に青森の実家まで繋がっています。道路でその神秘を感じないのに、鉄道では楽しい妄想に耽る——この意味は何なのか。

少しゆっくりと考えていきます。

新しくLRT(トラム・路面電車)を導入する自治体が増えてきました。フランスではトラムはすでに珍しいものではありません。日本のトラムはかつての「市電」が残っている例が多く、特に西日本で古い車両が走っている姿を目にします。他方で路面電車を低床車両にしたLRT(高速市街電車)を導入する街が増えてきており、富山などは格好いい車両が町中に溢れています。

写真を見るとわかるのですが、軌道(線路)が敷かれています(当たり前ですが)。僕が「鉄道的」なものにこだわるのは、まさにこの「線路」の存在なのです。この「線路」は我々に「行き先」を可視化してくれます。「道をどこに進めばいいのかわからない」と考える際の目印となるのです。

こう考えると冒頭の僕の妄想もわかりやすいかもしれません。自分の目の前の道路が遠方に繋がっていることは知っています。しかし線路はその道筋を「可視化」するのです。近鉄上本町駅のターミナルの前で、僕は「この線路が伊勢まで繋がっている」としみじみ思います。そこに「自分と縁の無いように思えた空間(社会)との繋がり」が見出されるのです。


自分と他の世界のあいだに線路が存在する。そのことを僕は時々忘れます。ですが、他者の立場からすると、その線路は自分に向かってとっくの昔に伸ばしているものなのです。あるいは僕が伸ばしている線路を、他者が気づかないという例もあるでしょう。いずれにせよ重要なのは、自分と他者のあいだにはつながり(それは「縁」と言い換えられるかもしれません)が存在しており、可視化せねば気づかないということです。


自分で自由に操っている(つもりの)自家用車と異なり、鉄道で他の街に行くには制約がかかります。「駅」という特定の空間に出向かなければならないのもその一つでしょう。「縁」を辿ること、「他者」に近づくことには、それを実現させるための準備が必要です。他者が自分に伸ばしている「線路」に気づくことができるか、それを辿る準備はできているか、そのために我々は何をすればよいのか。「鉄道的」という概念は、自他の「あいだ」を捉え直すための「イメージ」です。

自分の一方的な衝動を述べる前に、まず「自分以外」(=他者)の人を想像すること。そして目に見える他者、目に見えぬ他者との関係を「鉄道的」に捉え直すこと。そこには思わぬ「線路」が敷かれているかもしれないし、「廃線」となった繋がりが潜むかもしれない。それを可視化し、あるいは甦らせるにはどうすればよいか。

このテーマが現在の混乱に直接関係するとは言えないでしょう。しかし我々(少なくとも僕)は社会の網の目の「複雑さ」や、それを構成する「他者」をイメージすることを欠き、一方的な言説の中で現象と向き合うことに慣れてしまいました。今、あらゆる関係を「鉄道的」に考えることで、ゆっくりと議論を始めて行きます。

「鉄道的」のテーマについてはまた繰り返し吟味していきます。

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