メディアとしての記憶

飲み会をしたり仕事をしたりしていたら三日くらい更新を忘れていた。義務は自分の中に作るものであり、誰も気づきはしないのだから、自分が思い出すしかない。継続の切断は「待っているのが自分」という真理を教えてくれた。

さて、話題の作品を鑑賞してきた。

この映画で気になったのは「メディア」である。

そういえばこの作品は上映時間の関係で「あべのアポロシネマ」で鑑賞したのだが、ここに来るのは『君の名は。』以来だ。あの作品では捩れた時空で大切な人を「忘却」する。そのために瀧は三葉の名前を書こうと思うが、その瞬間にその名を忘れてしまう。ここにメディアをめぐる問題が存在する。それは文字で記憶を定着させる意義だ。

他方で瀧のスマートフォンの記録が消失したように、文字が消えるとすべてが終わる。「焚書」はそれゆえに有効だ。そのときに重要視されるのが「語り部」である。すなわち文字で伝わることのない記憶の担い手だ。

『ラーゲリ』は文字メディアの不全において、人の記憶が意味を持つことを追究した作品だ。文字が禁止されることにより、体験の記憶が意味を持つ。文字による記録は、それを暗記する個人の記憶によって乗り越えられる。

いわば「口伝」に相当する記憶メディアは、たとえば古典落語などで実践が成される。そして文字で記録された落語が一門に受け継がれる芸によって変質する様を僕らは至るところで目にしている。すなわちメディアとしての記憶には「解釈」が介入するのだ。

『ラーゲリ』が傑作であることには異論を挟むつもりはない。その一方で僕は記憶が文字に代わりうるかという疑問を抱いている。誰かの言葉を記憶する。完全な暗記により、記憶は十全なメディアとして機能する。だがそれを語る人は、当たり前のように「声」を発する。そこに個々の解釈の問題が関係する。

映画についてあまり多くを語れないが、多様な声は読み手の解釈の多様さを示す。その一方で解釈が一つの方向に定まったとしたら——個人の思惑が散逸せずに同一の方向を指すことに、僕らは警戒を持っていた。だが極限状態は、その多様性から普遍的な何かを抽出する。我々の解釈は多様化するのか、それとも多様化の誘惑を抜け、普遍へと向かうのか。歴史に解釈を許さない、その瞬間こそが本作が描こうとした主題ではないだろうか。

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