ビッグデータの類型を逃れる

学内業務と学会の仕事が束になってやってきて、さすがに目の前が暗くなった。一日かけて仕事を整理し、なんとか道筋を作る。仕事を生かすも殺すも自分でしかない。

人間の能力に差異がない以上、「代わりはいる」のが真理である。SNSを開くと、僕の履歴が特定の宣伝を表示させる。宣伝がオーダーメイドであり得るわけがないゆえに、僕と似たような履歴を持つ人間が同じ宣伝に晒される。ウェブに集積するビッグデータは僕の類型の集積であり、自分に似た大量の誰かが似たような広告を見ている。

東浩紀の論文「新しい一般意志について」はまさにこのようなビッグデータがもたらす画一性を問題としている。ルソーが過去に描こうとした一般意志は、個人の無意識の集積であるビッグデータと類似した特性を持っており、それに基づく新たな民主主義を警戒する内容だ。

僕はテクノロジーの発展に伴うビッグデータの精度を疑うことはしない。意識の上では形而上的な難解さを求めようが、意識下では性的な衝動を求めていると指摘されれば反駁はできないし、AIが提示する広告の美女は魅力的だ。だがその一方で、その性衝動が具体的な関係性に発展した時に、僕らの前には個々の「生」が描かれることには注意せねばならない。

あるいはこうも言い換えられる。ChatGPTが「それっぽいこと」を言おうとも、体験の印象には個人差があるのだ。

AIは絵を創作し、文を作る。ビッグデータはその作品に大衆人気をインプットするため、もはやAIの芸術は人間を凌駕する。だが、プルーストを引用するまでもなく、芸術は印象の表現だ。両者はフランス語においてimpression/expressionで対になる。内面に刻まれたものを外化する際に、個々の選択するテーマや表現に独特の調子(accent)が反映するのであり、そこにこそ個人の差異が認められるのだ。

AIの分析は後に個々のaccentを模倣するかもしれない。だが創造的行為が個々の差異を反映するという事実だけは残り続ける。僕らは結局のところ、感じたことを発信することによって差異を示す。感じ、書き、作ることにより、僕らはビッグデータが包括する「自分と似た属性」の人から明確に分離するはずだ。だからこそ、結局「代わりがいる」はずの仕事にもどこか自分のクセが入り込むんでしまうのであり、「自分がやらねば気持ち悪い」ように思ってしまうのである。そう、これが過労の始まりだ誰か助けてくれ(原稿はここで途絶している)

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