まるでGoogleの多様なアプリケーションのように

法学部に所属するフランス語担当教員というポジションは、同僚がどう思ってくれているかはさておき、自分にとっては少し気楽なものだと感じている。それゆえ余裕を埋めるようなつもりで、学内や学会の関連業務には積極的に関わろうとしている。今週で見ても、公式オンデマンドの録画、学会広報の仕事、シラバスチェックと、仕事が毎日異なっている。

FD業務の一環で法学部の教員研修を企画し、仲間に講師を依頼した。そこで見えてきたのはGoogleの使い勝手の良さである。今さらかもしれないが、資料のストックや各種書式、クラス管理など、様々な機能に用意にアプローチできる。Googleを見ていて思うのは「やんわりと覆う」というイメージだ。アプリケーションによって機能は異なるが、それをGoogleというシステムがやんわりと覆うことで、それぞれの機能が相互依存関係に置かれている。Googleドライブは様々なファイルを簡単にストックし、他の利用者と繋いでいく。Googleフォームは回答をスプレッドシートの図表として展開することが可能だ。多様なシステムがGoogleの中に収められることで、我々はGoogleへの同時アプローチにより共通の世界に居住することができる。

ところで「FD研修の講師を仲間に頼む」ということは、その仲間との過去の関係と今を結びつける作業だ。では仲間に出会ったのは何がきっかけか?そこには別の過去が存在し、過去と過去が繋がっていく。相互の関係性がわからない出来事は、その背景に目を向けると、すべてが自分の体験によって連続性を持つ。

法学部の空間でフランス語を担当する中で、フランス語教育の世界での関係性は「法学部で生きる」今に繋がっていく。とすれば気楽な部署という自己認識の背景に、自分がここに存在する必然性を感じられる。およそ距離の穿たれた二項であるがゆえに、その「あいだ」を繋ぐことで独特な意味が生まれていく。あたかもGoogleが多様なアプリケーションを繋ぐように、自分の人生の断面が関係性を持ち、ぼんやりとした星雲のような状態に明確な線が引かれる。

自分が異なる文化に身を置くとして、異文化と自文化を繋ぐ主体は自分に他ならない。その「あいだ」でどのような「動詞」を紡ぐのか。「動詞としての文化」は学問の概念ではなく、文化から文化を揺れ動く自分の人生と一続きである。

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