ある事象に付随する価値の多様性
先日生まれた次男との生活も三日目を迎えると、かつての経験が色々と呼び起こされてくる。六年前に長男を迎えたときの育児技術を少しずつ取り戻しつつある。
ランニングだ、筋トレだ、ヨガだと言い出す僕を捕まえた学生に「40歳を過ぎて挑戦するのがすごい」と言われたが、生来の飽き性なので新しいことに興味を持つと突進してしまうクセがある。結果、繰り返しているうちにそこそこ上手くなる。子育ても繰り返しであり、すべてはトライ&エラーに尽きる。
子育てにせよ、何にせよ、あらゆる経験は「抽象化」を経ることで様々なものに転用可能だ。前田裕二氏のメモ論で試みられている抽象化の技法は、具体的事象から普遍性を抽出する論文執筆テクニックと相通じる。
プルースト研究を「フランス文学研究」のフィールドで行っていたが、数年前に軸足を国際文化学や教育学に移した。やっていることは同じだが、文学の各種主題を抽象化したときに生じる教育的課題への関心が尽きなくなった。その後は「文学が読者に何を教えるのか」という発想から、個人の精神における「異文化受容」の考察に執心している。
ここ数日、小林秀雄の『本居宣長』をめくっている。源氏物語を抽象化させた宣長と、その宣長の考察過程を明らかにすることで文学と自己を探究した小林秀雄を、さらに文学研究者である自分が読み解いていく。経験が蓄積されるように、文学も作者から読者へ、読者から別の読者へと継承されていく。それを学んだ自分の教育もまた他者に抽象化されていくのだろう。
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