揺れ動く普遍に翻弄されながら

夏休み直前の終業式の日に子供が発熱し、予定が少しずつ狂っていく。すでに回復したようなので心配はしていないが、集団生活で食事までともにする小学校や保育園はウイルスの培養に適しているのだろう。

子供のウイルスが家庭に持ち込まれ、それを親が社会にばらまき、感染の波が大きくなる。子供が培養し、大人が広く持ち運ぶ図式はずっと変わらない。子供の空間は密接であり、限られている。対して大人のライフスタイルは、緩やかで広い。

ベルギーを舞台とし、思春期の少年の衝突と別れを描く『クロース』は、子供のコミュニティの特殊さが縦軸となっている。ベルギー郊外の花卉農家の息子であるレオは、親友のレミと中学に入学するが、二人の親密な関係は同級生にいぶかられ、執拗なからかいを受けるレオはレミと距離を置く。レミはその変化に耐えきれず、レオの前から姿を「消す」。

およそ「教室」は特殊な「普遍性」を内包する。ヘーゲルが指摘するように、人間は成長段階で新たな「普遍性」を獲得する。普遍性が「変質する」とはわかりやすい矛盾だ。だが実際に僕らの寄って立つルールは、僕らのステップアップに従って変化する。何も気にしない乳児から、親の言うことに従わざるを得ぬ幼児、そして先生やクラスメイトの目に晒される学童期に至り、我々が寄って立つ価値観は別のものに変容する。

レオとレミにとって、お互いの家庭を往還し、ずっと二人で時間を過ごすことが普遍性に他ならなかった。だが二人が中学に進むと、思春期を迎えたクラスメイトがその関係性を「異様なもの」として捉える。自身の普遍性とクラスの普遍性を統合できずにいるレオは、他の友人グループに所属し、アイスホッケーのクラブに入ることで、クラスの普遍性にコミットしようとする。

そこで生じたグループは、当然ながらレミを排除してしまう。レミは遠巻きにレオのグループを覗き見るが、耳馴染みのない単語が飛び交うコミュニティに入り込む術を持たない。レオはレミとの距離を仲介することなく、「言葉」を交わすことすらせずに、スポーツに入り込むことで言語から距離を取ろうとする。レオが獲得した「言葉」はアイスホッケーに関するものと、「ロナウド」「ンバッペ」といったスポーツ選手をめぐる固有名詞だ。

レミが「去った」ことで、レオは自らが捨て去った「言葉」の問題に改めて直面する。新たなコミュニティに所属する人間がレミについて語る「言葉」は、どれもレオを満足させるものではない。レミをめぐる「言葉」はレオの中にのみ存在するが、思春期の変化はレオをその「言葉」に立ち戻らせることはない。レミを失った親たちを前に、レオは「言葉」を閉ざす。自らを呪縛するレミへの感情は発露を求めるが、レオの未熟な精神が「言葉」を与えてくれることはない。ゆえにレオはアイスホッケーに入り込み、身体へと働きかけていく--

新たな「普遍性」を前にした際に、僕らは「言葉」による「仲介」を試みる。否応なく新たな「普遍性」を与えられた思春期の少年は、未熟な「言葉」を抱え、いかにして生き抜くのか。レオとレミを取り巻く大人たちは、「普遍性」を強要することもなく、ただ二人を見守っていた。その優しさ故に、少年たちは自らの力で「普遍性」の対立を解消せねばならない。レミの悲劇、そしてレオの喪失は、「普遍性」が複数化する矛盾に満ちた世界を無力なままで生きねばならぬ事実の表象に他ならない。

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