あえて個から国際関係を考える

国際文化学を「国際関係を文化で見る試み」と定義したときに、考察対象は当たり前ながら「国」と「国」になる。「国」というタームを使う時、僕らはそれを構成する様々な要素を簡略化し、あたかも「国」を擬人的に捉える。また、一億人からなる国民の多様性を喪失し、「日本人は」という大きな主語を用いてしまう。

だが当たり前のように「国」は単一のイメージで語り得ない。「日本人は」という語り口はどれだけの要素を取りこぼすだろうか。

国際関係を論じることと、個を見ることは矛盾するかもしれない。だが国際文化学のアプローチは多様だ。文学から研究を始めた僕は、逆に個からしか考察を展開できない。文学に表出する個の精神を追体験し、境界を超えて響き合う文化要素を丹念にさらっていく。人の言葉は日本国民全体に届くのかもしれないが、まず僕個人に届く。僕は僕の精神を軸にすることでしか現象を分析できない。

ゼレンスキー氏の言葉が批評に晒される。そのメッセージは「日本国民に届くもの」だと評する。あるいはそのメッセージは他国に向けたものとは異なり、「日本の国民性に合致するように練られた」と評価される。批評家たちの言葉でコメント欄が埋め尽くされ、あるいは「感動」という単語がウェブを飛び交う。日本国民という主語を使えない僕には、その言葉が日本国民に及ぼす影響関係を簡単に述べることはできない。批評の言葉は遊離し、様々な人を介して再生産される。訳知り顔での「あのスピーチは日本人を共感させる」といった言説が各所で飛び交っている。

あの言葉が「日本向け」なのか、「ライターが優秀」なのか、僕は知るよしもない。ただ、僕は住み慣れた町が暴力的に破壊され、子供が死ぬという言葉を「体験」する。カタストロフが襲いかかり、自分の馴染んだ空間が破壊される。一瞬前の幸福が、子供の死によって断ち切られる。僕とゼレンスキー氏の経験はむろん異なるものだ。だがその言葉が喚起する現象は、僕の身体の記憶と響き合う。その体験は日本国民へと拡張されるのだろう。だがその前に自分の精神へと立ち止まる。訳知り顔などできぬ、固有の体験を抱えた自分が、その言葉を前に立ちすくむ。見たこともない国の、名も知らぬ人たちの悲劇が、身体を舞台として再現されていく。

痛切さの体験は終わり、明るく暖かい部屋で食卓を囲む自分の姿が見える。僕の現実とウクライナの人の現実はまるで違う。だが平和な空間に身を置く自分の中に、ゼレンスキー氏の言葉が座り込む。支援程度でしかできない僕は、訳知り顔を畳み、この痛切な「体験」を抱えて仮初めの平和を生きる。

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