一気に動き、空白となる

オンライン授業に向かい合いながら、無駄が消えて増えた時間でいろいろと考え続けたこともあり、おそらく前後で自分の価値観が大きく変化している。コロナ禍は自己の反芻にはちょうどよい機会だったのだろう。デバイスが変化し、価値観が変化した。それを対面に戻すため、当然ながら「すべて戻る」ということはない。

僕はこの変化を「進化」と捉えている。研究業績はさほど増えたわけではないが、無理やりの仕事が減った分、様々なことを考え直す機会を得た。結果、学問や教育の理解が明らかに漸進した。そうなると自分のこれまでの授業もまた大きく変化することになる。過去に作った授業の進行表やスライドは大きく変化し、授業は「定番」を残しながらも、異なる形になっている。

結果、授業日の「動き」が多くなる。授業内はもちろん、終了後の分析や、フィードバックなども変化を見せている。そのため時間が一気に取られる。また、手術後(というよりも症状ゆえの運動不足)の体力低下が原因で、作業の合間に動けなくなるパターンが増えている。

立ち上がることができず、空白のままに過ごす時間が増え、時間が減るというのは、わかりやすい悪循環だ。だが「空白」ができるほどの疲労で、他に何ができるのだろう。その疲労を無視して埋めていくのがかつての自分だったとすれば、疲労を知る自分はこの時間の欠落をどう埋めていくべきか。あるいは空白は何かを生むための素材として機能するのではないか。

空白の時間に、疲労の原因となる作業が中断し、その状態で思考に投げ出される。この状態が次の何かに繋がることを、少なくとも僕はよく知っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?