二元論が強化する「父」の権力

子供のリクエストで流行の作品を鑑賞した。

子供を盛り上げるためのわかりやすい物語の構成についてあれこれ言うのは野暮であろう。事実、息子は非常に喜んでおり、リピーターになりたいと言っていた。

言うまでもなくアメリカ型のエンターテインメントはモダニズムを背景としており、善悪二元論が貫かれている。善のマリオと悪のクッパが戦うわかりやすい物語だ。マリオはクッパの巨悪に敗れそうになりながらも、弟・ルイージの成長により強力な力を手にしてクッパを打ち倒す。

見上げる家

ちょうどその前日に、縁があって西野亮廣氏の家(レンタルスペース)「見上げる家」を訪問したが、西野作品は意識的にアメリカ型エンターテインメントを取り入れ、二元論の物語を展開している。

「夢」を追うルビッチがゴミ人間プペルの力を借り、敵の妨害を振り払って「ホシ」を眺めるに至る物語は極めてシンプルだ。西野はシンプルでサプライズのない王道作品の創造により感動を生むことに挑戦したことを公言していた。

この二つの物語を並べると、シンプルな構造の影に一つの「力」が潜んでいることが見て取れる。それは息子の行動の指針となる「父」の存在だ。

マリオは父によって成長を認められず、コンプレックスを感じ、父の期待に応えようとする。この父の圧力がマリオを冒険へと誘い、作品の結末において現実のブルックリンにファンタジーの世界が接続され、マリオは父の前でクッパを打ち倒すことになる。これによりマリオは父の承認を得て、成長の物語が締めくくられる。

「えんとつ町」のルビッチを冒険に誘うのも父ブルーノの存在だ。父の言葉がスティグマとして刻まれることで、ルビッチは「えんとつ町」に埋没することを許されず、冒険を成功させることで父=プペルの承認を得る。

子供たちが「悪」を乗り越えて進む「善」の道は、子供が作ったものではなく、父が期待するものだ。言い換えると父は子供の「呪い」として価値観を制限する。父の期待の呪縛を乗り越えることが「成長」となり、悪は父の教えの前で粉砕される。

先週の日曜は「父の日」だった。息子たちとサッカーを観戦に行くと、キックターゲットゲームに成功すると「父の日」のための花をもらえる企画が開催されていた。子供たちは父=僕のためにミッションをクリアし、青い薔薇をもらう。子供たちが「期待」によって作られた目的を達成する様は微笑ましいものだ。エンターテインメントの背後に潜む「父の力」を訳知り顔で分析する自分は、同時にその力の磁場に囚われた子供たちの「成長」を楽しんでいる。

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