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未知なるものを前にするとき

職場とはまったく関係ないところで若者と話し、言葉が通じないことに驚いた。日々フランス語教育によるジェネリックスキル強化を提唱しているが、若者と話せない時点で僕はまだまだ未熟である。

こちらが「前提」と思い込むことは、多くの場合において他者に伝わらない。そして他者もまた自分の前提で生きている。僕と他者の前には空隙が横たわっており、それを一つずつ埋めていくことが必要だ。そのための手段を僕は「学問」あるいは「研究」と呼んでいる。だから文学を読まねばならない。

週末は息子の六歳の誕生日を祝った。子供は危険を顧みないようでいて、未知のものに難色を示す。何かを薦めても、気怠さを感じたら拒否感が出てくるようだ。だが、予想がはっきりとできるものには問題ないらしい。

息子と世界のあいだにも空隙がある。おそらくそれが「子供」なのだろう。子供時代は自由ではなく、未知のストレスに囲まれた不自由なものとして存在する。

他方で多少の経験を積むことで、未知のストレスを迂回し、見知った道を歩もうとする人たちがいる。僕と若者のあいだの空隙は、見知った道の差異でもある。若者は未知なるものを知ろうとせぬままに、世間の言説を利用しながら「不要」と切って捨てようとする。僕はそのような若者が未知の存在として映り、適切な言葉を紡ぐことができない。空隙を乗り越えることを知らぬまま、少しのあいだ見つめ合い、お互いに諦める。この「未知の壁」は、息子が見知らぬことに難色を示すことと何一つ変わるところがない。

僕らは世界と自分のあいだに空隙を残す「子供」として存在する。それに思い至ったとき、自分の選択で人を束ねることの危険性が切実に迫ってくる。何かを決断し、発言し、行動する——一人ではなく、仲間を引き連れて——自分と仲間の周りに存在する空隙が、世界からの「税」のようにのしかかってくる。学問を止めぬ理由はそれだけで十分だ。

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