現在の飛鳥、そして大相撲の物語

先週思い立って一人で飛鳥を巡った。飛鳥は家族や仲間と訪問することばかりなので、一人でゆっくり回ると発見も多い。駅前でレンタサイクルを借り、遺跡や寺をいくつか回ってきた。


甘樫丘からの眺め

飛鳥に行くたびに思うのは、我々が目にする空間が古代史とは異なっている事実だ。有名な飛鳥寺は当時の姿とは異なり、ずいぶん小さくなっている。また聖徳太子ゆかりの橘寺も、本堂は江戸時代にできたものである。そもそも聖徳太子の物語が後世の伝説に依拠するものである。

石神遺跡の発掘現場

いわば古代飛鳥は土の下に眠っており、考古学的な調査によって実像が復元される。飛鳥での歴史との接触は、過去の建造物が残る平城京以降の奈良や京都とは大きく異なる。有名な高松塚古墳も復元されたものであり、壁画館で鑑賞できる内部の四神の絵もレプリカだ。

我々の目に飛び込んでくる飛鳥は現代の姿であり、様々な時代の文化が散在している。そしてそのことを忘れた観光客は、人工的な飛鳥を前にして「日本の魂のふるさと」を実感する。聖徳太子の伝説は、我々の共同幻想の一つと言っていいだろう。

古代から語られてきた心意伝承が様々な時代を経て受け継がれ、現在の飛鳥を構成している。それこそが物語=虚構の力に他ならない。

飛鳥探究の翌日、友人が大相撲春場所に招待してくれた。

エディオンアリーナ大阪は終日満員

相撲によって体現される精神性や品格といった要素は、僕らの日常にどれほど浸透しているだろうか。髷を結い、回しを締めた力士が、儀礼を経て土俵に上がる。大阪ではこの時期に和装の力士をよく目にする。その所作の一つとして僕らは日常に取り組むことなく、今日もユニクロの服を着て洋食を食べながら、力士の儀礼を見守り、品格に口を出す。現代に受け継がれた日本人の精神性の物語=虚構が、具体的な意匠を伴って目の前で展開される。

かくも僕らは物語に惹かれる。そして相撲は物語の核に潜む身体性によって継続している。巨体がぶつかり合い、投げ飛ばし、押し出す……身体が作り上げる戦いのルールは極めてシンプルなものだ。僕らは確固たる根拠に基づいた物語を欲している。特殊な空間でありながら、そこには自分の寄って立つ物語との連続性が見出される。

そういえば大相撲は奈良において発祥したと言われており、飛鳥から程近い橿原神宮で奉納行事が執り行われた。古代から様相を変えてなお物語を継続させる飛鳥と、近代化の中で日本的なるものの象徴として結実した大相撲の物語は、共同幻想を背景に我々の魂を呪縛する。

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