変容せずに変容を強いる罪

欧州のビッグクラブの来日ツアーは、日本のファンの思惑を裏切るものであったかもしれない。インテルは東大阪での公開練習の予定を変更し、PSGはエムバペを帯同しなかった。

インテルの練習はヨドコウ桜スタジアムに変更

インテルは内容自体が変化したわけではなく、PSGも目当てはセレッソ大阪のパフォーマンスであったので、個人的には両方のイベントを楽しめた。

PSG戦ではセレッソが勝利

思惑は現実に飲み込まれる。
花園のスタジアムはインテルには都合が悪く、エムバペは契約の問題が立ち塞がり、ネイマールは怪我を抱えている。そのような「現実」に悪態をつきながら、僕らはままならぬ日々を過ごしていく。個人的な興奮が「思惑」を乗り越えることで、僕は余韻を抱えてこのイベントを消化する。

宮崎駿監督の新作『君たちはどう生きるか』は、大人の思惑をめぐる代理戦争の話かもしれない。

吉野源三郎による少年の成長の物語は、本作においてほぼ直接引用がなされず、物語は戦争で母を失った少年が地方の義母宅で直面する超自然的な事件をめぐって展開する。主人公・眞人は母を失い、地方の共同体で新たな家族を得ることを統合できず、状況に合わせて適切に言葉を発することができない。実業家の父は眞人の現実をいとも容易く塗り替え、亡き母の妹を後妻として迎え、眞人の小学校の人間関係など知るよしもなく財力ですべてを操ろうと目論む。大人による(いささか強大な)力は眞人を翻弄するが、そのような関係性の亀裂が超自然的な世界に入り込むきっかけとなる。

超自然的世界の作り手は、かつてその屋敷で不可思議な塔を築き上げた「大叔父」であり、物語の中盤以降は迷い込んだ異界における冒険が主流となる。いわば社会不適合者の大人が作り上げる精神世界に迷い込んだ眞人は、調和の取れた非現実的な世界への安住を拒み、歪な関係性と戦争の破壊が進む現実世界へ回帰するために困難へ打ち勝っていくのである。

全体を通じて吉野源三郎ではなく村上春樹の小説が映画化したのかと思わせるような世界観だ。そこに見られるのは「現実世界」と「精神世界」の対立であり、不条理に満ち溢れる社会にコミットメントできない稚拙な大人が異界に自己を閉じ込めようとする。変容を拒む大人の弱さの克服は、思春期のこじれを抱えた眞人に委ねられる。自己の世界と現実を統合できぬ少年は、思春期の危機を経て現実の中に自らを置き直さねばならない。その孤独な少年の戦いは、現実をねじ伏せる経済力を抱えた「父」、そして社会の不条理を前に精神を閉ざす「大叔父」の対立を象徴するものだ。現実のみを見て精神性をないがしろにする大人と、現実を見捨てて精神世界のみを生きる大人たちが、眞人を自らの手の中に閉じ込めようと画策をする。

現実世界と精神世界の二項対立に置かれた少年は、その二つを統合して生きることを強いられる。子供は稚拙な大人たちが捨て去ったものを背負い、その上で大人たちの思惑に組み込まれる。自らは現実に飲み込まれながら、子供にだけ「夢」を語らせる無責任な大人たちを、僕たちは社会の至るところで目にしてきた。子供の葛藤を見ようともせず、社会的な権力で介入する大人も、自らが社会に身を置きながら精神世界をありがたがる矛盾に気づかない大人も、自分自身の写し絵だ。僕は自らの精神世界の稚拙さを批判することも無く、変容の苦しみに背を向けながら、「君たちはどう生きるか」と子供に変容を求める行為にこそ陰湿な暴力性を感じる。宮崎が象徴的に描いた精神世界は、思春期を終わったこととして自己に目を向けぬ弱々しい大人たちの内奥だ。精神世界を美化し、現実を汚らしいものとみなした「大叔父」のカウンターパートは実業家の「父」である。しかし自らの恣意的な美学に耽溺する稚拙さは、実利のみで社会を制圧しようとする横暴さのネガでしかない。そんな稚拙な大人が「君たちはどう生きるか」と偉ぶったところで、「ではあなたはどう生きているのか」とのリプライを受けるだけだ。

結局のところ僕らは精神の危機を超克できず己の内に閉じこもり、あるいは精神の危機を見ぬ振りをして現実をねじ曲げようとする。現実をわかったふりをし、あるいは現実を否定し、目に見えぬものを見通すための変容を拒否する大人にどんな優位性があるのだろう。原作においてコペル君は人間の目に見えぬ繋がりを可視化し、学びにより自らを変容させる。その少年の姿は変容の必要性を隠蔽した大人たちの進むべき道を眩しく照らしているのではないか。

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