弱きラーイオスによるオイディプスへの呪い

是枝裕和監督『怪物』を鑑賞した。

本作は主人公・麦野沙織が息子の湊の異変に気づき、その原因を学校教育に求める描写から始まる。麦野は夫を事故で亡くし、湊と穏やかに暮らしているが、湊は泥に汚れて帰宅する。「豚の脳を移植されると怪物になってしまう」と語る湊は、不審な行動を取るようになり、行方不明になったり自傷を行ったりと、麦野を翻弄していく。湊を問いただす中で、担任の保利が湊を侮蔑し、暴力を振っていると告げられ、麦野は学校を相手取り、教員の不祥事を明るみに出そうとする。このような前半の展開により、我々は非力な小学生を巡る学校の陰湿な暴力を想定するが、嵐の日に湊が行方不明となることで物語は断ち切られ、保利の視点、湊の視点での物語が接続される。

前段のミスリードが伏線となり、後半で物語の真実が露わになるといった『藪の中』的な叙述トリックによって、本作は驚きと衝撃のエッセンスが加えられ、鑑賞者を飽きさせずに展開していく。だが本作における視点の変更は、我々の抱える権力が「無自覚」であるゆえに暴力性を帯びる事実を浮き彫りにしている。

第二の物語(保利視点)において、担任の保利は湊を虐待したことはなく、教室で暴れる湊を取り押さえただけであることが明らかになる。保利は保護者のクレームを恐れて体裁を守ろうとする学校機関の権力性により、事実とは異なる証言を行う。保利の視点において湊は暴力性を抱えた問題児であり、クラスメイトの星川依里を暴力で圧している疑いをかけられる。だがこの保利の物語もミスリードであり、実際はクラスに馴染めない依里と、麦野との関係性に致命的な問題を抱える湊は、強い絆で結ばれていた。

麦野と保利の視点は制作者のミスリードであるとともに、我々のバイアスを自覚させる仕掛けでもある。

シングルマザーの麦野、そしてエスタブリッシュメントに真実を握りつぶされる保利は、一般的観点から見ると「弱い」登場人物であろう。だが麦野はその属性により、湊に呪いを植え付ける。浮気によって自らを捨て、事故死した夫への固執ゆえに、「普通の家族」を湊に押しつけるのだ。男子児童である依里に惹かれる湊は、「普通の家族」を築くことができない自分を自覚し、精神を危うくする。そして依里も父親から執拗な虐待を受ける。依里の苦境を救えない湊は、クラスメイトの誤解を避けるためにも依里から遠ざかり、その統合できぬ精神が暴力性を惹起する。

湊の罪は、保利に虐待を受けたとする「嘘」である。だが「弱い」保利は明らかに湊に対して優位性を持つ。湊の行動を暴力であると判断し、個の精神の崩壊をわかりやすい物語で解釈して、クラスのコミュニティで共有を図ったのは他ならぬ保利である。湊の行為は、自分の物語をねじ曲げる権力者へのささやかな反逆に過ぎない。エスタブリッシュメントの被害者である保利は、自らが作り出す世界=教室において湊を追い込む加害者でもあった。それは家族コミュニティにおいて湊を追い込む麦野と同種の罪である。

嵐の朝に家を抜け出した湊は、依里と二人だけが知る廃電車の中から「出発」を夢みる。二人の物語はシンプルなものであるにもかかわらず、周囲が二人を色づけ、物語が錯綜していく。動くことのない配電車から二人が眺める嵐は、その日常の暗喩に他ならない。

ギリシャ神話においてオイディプスを傷つける父ラーイオスは国王であり、息子は父殺しの宿命を担う。そして『怪物』で描かれるのは、社会的弱者である弱きラーイオスの権力性だ。

エスタブリッシュメントとしての小学校を象徴する校長・伏見は、「嘘」をついた湊とともに管楽器を吹き鳴らす。音楽教師であった伏見の音はクリアなものだが、初めて楽器を吹く湊の音は歪だ。だがその歪な音と重なることにより、伏見の音楽は不協和音に変貌を遂げる。我々の物語が正しく機能するのは「権力」と表裏一体であるからではないか。自らが自覚する「弱さ」は暴力性の隠れ蓑であり、権力に虐げられる者の物語を歪だと決めつける。伏見が守ろうとしたエスタブリッシュメントはおぞましい不協和音を響かせるが、麦野と保利の物語もまた子供の音を不協和音と決めつけるような無自覚な暴力性を内包している。

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