異文化との接触時におけるフィルターの機能

近大生が主催した西野亮廣講演会を少しだけ手伝わせていただいた縁で、学生限定の講演会に席を作ってもらった。

講演内容を要約すると「人口減少によりこれまでと異なる経済生活を送らなければいけない日本においてどのように行動をしていくか」といった内容だ(あまり詳しいまとめはあえてしない)。氏は社会主義的マインドとも親和するような富の分配策を、エンターテインメントやコミュニケーション論と関連付け、非常にスマートに理論展開をしているため、講演内容も明快だった。本講演に興味を感じた学生諸氏は、経済・社会・法といった観点から氏の議論をどう解釈できるか、自身の専門とする学問との関連で捉え直してみると良いだろう。具体的事例の背景には抽象概念が潜み、多くの場合それらは学問の道へと繋がる。

一点、個人的に関心を持ったのが、「オーバースペック」という概念だ。相手の希望に従って技術やサービスの質を高めていったときに、ある一点を超えると消費者に「差異」がわからなくなり、提供側がただただ質を上げるゲームが展開されていく。

たとえば文化が他者に受け入れられる際に、他者は無批判に文化を受容するわけではない。接触の際には必ず自他のあいだに潜む「フィルター」を通過せねばならず、「抵抗」が生じる。たとえば西野氏のクラウドファウンディングが10年前に「抵抗」にさらされ、「拒絶」された事例を思い出してみると異文化受容の難しさが容易に想像できるだろう。

オーバースペックとは、受容側のフィルターにより、ある文化の中にある微細な差異が区別できなくなる現象として理解できる。この事例は様々挙げることができるので、身近な例を探してみても良い。そしてこれを教育展開したときに、相手の「フィルター」を考慮しない文化発信(=知見の提供)がしばしば無意味化してしまう現象に思い至る。これは教員と学習者の知識の差、専門性の差によって不可避的に生じる現象だ。一部の教員は学習者の不理解を学習者の知識不足のせいにしてしまうだろう。だが「オーバースペック」というタームに引き寄せると、他者の要求をオーバーすることそれ自体がコミュニケーション不全なのだ。その責任は学習者に帰せられるような単純なものではなく、発信側の認識に深く関わるものだろう。

自他のフィルターを前提とし、他者といかなる教育=コミュニケーションを作り上げるべきか。来たるべき時代の経済状況にかかる具体的事例が中心だった講演は、テーマの解釈によって様々な場面に応用することが可能だ。以上、講演会当日のことゆえ参加者の習得の特権を守るために、勝手にネタバレ防止として、応用により内容に言及しない感想を書いてみた。

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