ストーンヘッジを思いながら性愛についての作品を読む

村上龍の新作を読んだ。

70歳を超えた作家がYouTubeで女性遍歴を語るという物語であり、作家のステイタスに村上龍本人の姿がちらつく。キューバ音楽が好きで、キューバで映画を撮り、芥川賞を受賞し、福生市に住んでいた作家が登場するため、意図的に自分の経歴を埋め込んだのだろう。

作家が自己言及的な作品を作成する際に、それが真実なのかフィクションなのかといったことを問うのは、すでにプルースト研究で飽きている。また、たとえ自伝であってもそこには虚構が混ざるため、僕は「作家が自分の語りたい物語を提示した」と解釈している。村上龍は70を過ぎた作家がYouTubeに性愛の遍歴を語る作品を書きたかった。これによって何かを語りたかったわけである。

個人的に言えば、70歳を過ぎた人間の性愛の話や、恋人とのエピソードなど、あまり読みたいものではない。他方で92歳で恋愛譚を含む『長い物語のためのいくつかのお話』を書いたロジェ・グルニエがいる。

ここにおいても、作家は自分の人生に取材するかのように、過去の恋人の話題を提示する。しかもその恋を若かりし頃のエピソードとして描くだけではなく、語り手が老いてからもそれとなくかつての恋人の名前を求める挿話が加えられる。

僕は92歳でもなければ70歳ですらない。四十代の自分にとって、性愛・恋愛の主題は少なくともメインテーマとはならない。しかるにそこからさらに数十年の人生を積み重ねた人間が、言ってみればリアルタイムのような生々しい恋愛の物語を創っているのだ。

かつて夏目漱石の諸作品において、女性があたかも主人公にとって「他者」として描かれている点に強い関心を持った。主人公にとって女性は徹底的に未知の存在であり、所有してもなおコミュニケーションが機能せず、時として主人公は苦悩に苛まれる。これはプルーストが描く女性にも共通しており、主人公は女性に接近しようとしては失敗し、我が物にしたと思っても次第に露わになる未知の要素に困惑し続ける。

おそらく男性性の特質なのかもしれないが、創作物において女性はしばしば過度な神秘を背負わされる。その途方もない期待によって、たとえばセカイ系といわれる作品が創出され、またエヴァンゲリオンの碇ゲンドウにとっての妻のようなものが生み出され、世界の行く末を左右するほどの力を担わされる。このような大袈裟な物語に接したときに、つい「気色悪さ」を感じてしまう。女性にそこまでの神秘を与える根拠がまったく不明なのだ。

早起きしたのでテレビでナショナルジオグラフィのストーンヘッジ特集を見てみた。古代遺跡は20世紀末にミステリーとして消費され、古代に栄えて消えたとされる幻の文明や、異星人の痕跡と結びつけられていた。だが最新の調査ではそれらの遺跡の建造を可能とする技術や、制作の目的が次第に明らかにされている。

過度な神秘の物語は研究の成熟によって終焉を迎える。あたかも老成した人間が女性に神秘を見出さぬように。

僕らの興ざめは、結局のところ過剰な神秘を求める幼稚な精神の裏返しだ。女性へ過度な神秘を抱く時期を終えたゆえに、神秘なき恋愛に意味を見出せず、恋愛・性愛の主題を遠ざけるに過ぎない。ラブソングを嗤う自分は、ラブソングが嘘であることを知り、結局嘘であるむなしさを前にシニカルな態度を取る。では神秘が消えたその先はあるのか−老成した作家の恋愛物語は、神秘を必要としない人間がそれでも性愛を求めるゆえに創造されるのだろうか。自分にそれがわかるのはあと数十年先だろう。とにかく今の自分にとっては、村上龍の新たな物語があまり心地よいものではない。

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