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目に見えるものの背後に目を向ける

オンライン授業にもいくつかのパターンがある。だいたいの授業はリアルタイム(ZOOMなどを使用)で進められているが、僕の授業はほとんどがオンデマンド(YouTubeでの録画の配信)だ。四月頃の段階で「ZOOMで90分は現実できではない」と思っていたが、僕の予想とは裏腹に大部分の授業がZOOMでの双方向で進められていく。ひょっとしたらオンデマンドはマイノリティに属するのかもしれない。

だが、少なくとも自分の授業に関しては、オンデマンドが最適だと今でも思っている。

オンデマンドは受講者の時間を拘束しないため、タイムマネジメントは学生に一任される。動画を見るも見ないも学生次第だ。僕はこれを完全に学生に委ねた。なんなら講義系科目では詳細な資料をセッティングしているので、人によっては動画を見ずに授業を進めるようだ。

それをすべて受け入れ、最低限の機材しか持たない学生を想定したところで講義を作成する。ZOOMが一般化する中では珍しい授業かもしれない。だが、オンデマンドであることが様々な成果を生んでいく。

「国際化と異文化理解」は、前半の自己分析パートを終え、マイノリティをめぐる考察へと移行した。僕は彼らを「不可視の隣人たち」と呼んでいる。このネーミングは古巣の東北大での研究プロジェクトから拝借した。見えているつもりで見えていない隣人たちを、改めてしっかり見ること、そのためにフランス文学の力を借りることがこのパートのポイントだ。そして受講者たちが講義を通じて「不可視の隣人たち」を見つめ、真正面から分析を加えていくことを実感ている。これまでのようなリアルタイムではなく、学生が日常の中に置かれた動画資料を一人のときにそっと眺めることで、自分の内面が揺り動かされていくのだと感じる。

しっかりと見るために目を閉じる………プルーストは世界を確実に捉えるために一人で部屋に閉じこもる。プルーストが試みた精神世界の探究が、オンデマンドを通じて促されていく。

自分が見ているつもりで見ていなかったもの、それを見えなくさせていた自分のうちに潜むネガティヴな感情が、プルーストの文章を媒体として可視化される。文学を読み、打ちのめされ、腹の底に鈍い痛みを感じることと代償に、僕たちは視界を広げていく。見えない世界を見るために、見えない自分を見るために、本の文字を追い、作者の語りを反芻する。言語化できないものが言語化され、闇に閉ざされていたものが姿を表す。学生に語りかけながらも一人の空間維持するために、自分の「声」を「文学化」することこそが、オンデマンドの本質ではないだろうか。

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