文化と文化の衝突、そしてその背後に潜む普遍性

プロレスリングNOAH大阪大会でGHC王座を防衛した清宮海斗をオカダ・カズチカが急襲した。

1月のNOAH×新日本プロレスの対抗戦で、清宮の顔面蹴りを受けたオカダが激怒し、リング下で乱闘を繰り広げ、二人の対戦が決定する。しかしオカダは清宮を格下扱いする態度を変えず、試合のボイコットを公言した。このオカダの行動に、プロレスファンたちは今後の展開を想像することになる。その中で目立ったのは「清宮が新日の会場に乱入し、オカダを襲う」というものだった。その有力候補だった2月11日(土)の新日大阪大会、すなわちオカダのIWGPヘビー級防衛戦の直後は何事もなく過ぎたが、意外にも翌日のNOAHマットで「オカダの乱入」が起こった。

この様子を眺め、「新日文化」と「NOAH文化」の接触と変容の瞬間を眺めたような思いがした。

新日本プロレスは先に他界したアントニオ猪木が作り上げた。当時の猪木のライバルはNOAHの母体でもある全日本プロレスのジャイアント馬場である。猪木は馬場に執拗に挑戦を表明したが、そもそもが異なるテレビ局をバックに持つレスラー同士であり、直接対決は難しい状況だった。挑発を続け、馬場が逃げる構図を作り出した猪木に対し、馬場はアメリカマット界との繋がりを利用して猪木より格上であることを案にアピールする。噛み付く相手を「相手にしない」ことで優位を保つとする戦法だ。

時代は令和となり、僕はオカダと清宮の態度に猪木と馬場の「ねじれ」を見たような気分だった。つまり「挑戦する清宮を相手にしないオカダ」の構図だ。

そもそも僕はオカダというレスラーがどうにも苦手だった。僕は馬場文化の血脈にある四天王プロレスの時代にプロレスを知り、スタン・ハンセンや小橋建太のラリアットを見ていた世代だ。その文化から見ると、オカダのラリアット(レインメーカー)に違和感を感じるようになる。ハンセンや小橋のラリアットと比べ、どうしてもフィニッシュの技としての説得力に欠けるように思えてしまうのだ。言い換えればオカダの評価は現在の新日本プロレスのストーリー=文化を受け入れることによって可能となる。同時にオカダが組み込まれる新日本プロレスは日本マット界最大の大手文化だ。その巨大な文化を背景に、清宮の挑戦をスルーするオカダを見たことが「猪木の血脈に馬場の文化がねじれて受け継がれた」と感じた理由である。

しかしそのオカダがNOAHを襲撃し、二つの文化は急激に接近する。そしてオカダが登場したことで、NOAHファンは大ブーイングを浴びせた。この瞬間こそが極めて重要なものである。NOAHファンは、現在のプロレス界で圧倒的な人気を誇るオカダの登場を喜ぶのではなく、エース清宮の敵としてブーイングを浴びせた。彼らはオカダをエースとして成立させる大手(新日)の文化に決して巻き込まれることなく、NOAHを独立した宇宙とみなしており、異なる文化を体内化させているのだ。NOAHは「新日の天下り先」ではなく、新日本プロレスとは異なる独自の物語を成立させる文化であり、その中ではオカダがエースとして通用しない。ファンのブーイングはそのことをはっきりと気づかせた。二つの文化が接近しつつ、その対立が明確化した瞬間である。

オカダ・カズチカが「エースとして成立する文化」と、「エースとして成立しない文化」が2月21日の東京ドームで接触する。両文化のエース同士の物語がかくも文化論を展開させるところに、新日とNOAH(あるいは全日)を貫く普遍的特性が潜んでいる。

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