思考メモ:スポーツと国際文化学の関係

「国際関係を文化で見る試み」と定義される国際文化学において、文化は「個別文化」と「普遍文化」に区分される。地理的・歴史的な差異を超越して同一のものが「普遍文化」であり、差異が生じるものが「個別文化」となる。「日本文化」「フランス文化」は差異が穿たれるため、双方が「個別文化」に相当する。

 国際文化学は、国際関係における個別文化の接触を巡る議論と言い換えることもできる。異なる個別文化が接触し、変容する様子に注目するゆえに、「文化と文化のあいだ」のダイナミズムが重要となる。したがって国際文化学は「間文化」(インターカルチュラリティ)の視点を必要とする。

 国際文化学の議論において、文化の接触と変容を「文化触変」と呼ぶ。国際関係において、一方が優位性を持ち、他者の文化に侵食する場合、劣勢に置かれた文化圏にネガティヴな感情が沸き起こる。この状態の中で文化の取捨選択が行われることもあり、「敵対的文化触変」と見なされる。

 ところで異文化はどこまで受容可能なのだろうか。僕は大半の文化は受容可能だと考えている。その理由は、文化を生きるのは我々人間であり、文化圏が異なっていたとしても同一の「身体」を持ち合わせているからだ。身体を基盤として文化が生成されるので、我々の文化はそこまで大きな差異を見せない。表面上の差異があっても、その中に受容可能な要素が眠っている。僕はこれを「普遍文化的要素」などと呼んでいる。

 僕が最近スポーツに目を向けているのは、趣味もあるが、「身体」の基盤に立脚した文化ゆえのことである。球技であれ、格闘技であれ、ロードスポーツであれ、そこに介在するのは人間の身体だ。むろんプロと素人には大きな差異がある。しかしその差異は人間と像の差異に比べると驚くほど小さい。

「国際試合」の言葉が成立するのは、スポーツを成り立たせている身体が文化圏を越えて共通しているからだろう。また健常者/障害者という粗すぎる区分すら、スポーツは簡単に超越してしまう。

このような単純な問題提起に基づき、現在はいくつかの視角からスポーツを考察している。

①サッカー:世界一の競技人口を誇る。世界と地域を繋ぐ。

②ボッチャ:障害者と健常者の区分を簡単に超越する。

③ペタンク:ボッチャよりハードルは上がるが、これも身体の共通性を考える上で重要。

この他にも考察対象はあるが、これらを国際文化学の一つの車輪として議論に組み込んでいく。

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