神秘の対象の過剰性

今日は研究会で来月末に出る論文を題材に発表をした。プルーストとボードレールを巡る論考であり、博士課程まで取り組んでいた課題を国際文化学に流し込んだものだ。

ボードレールの詩の中でひときわ有名な作品が「通りすがりの女(ひと)に」である。今引用をネット検索したら、過去の自分の論文がヒットしたのでリンクを貼っておく。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/ellf/104/0/104_KJ00009378436/_pdf/-char/ja

ここでポイントとなるのが通り過ぎる女性の美に心を奪われる話者の精神状態である。この論考で明らかにしているように、ボードレールの描写の背景にあるのは女性の神聖視ではなく、ロマン主義美学とも言える躍動感の反映である。むろんそれが女性を対象とするものである点は考慮する必要があるが(そしてそれはプルーストも同様だが)女性美を超えた芸術的主題へと接続される作品であることは間違いない。

「通りすがりの女」の主題を久々に思い出したところで、先日の別の研究会のことが思い出された。映画に関する考察であるが、そこで扱われたセリーヌ・シアマの映画が問題だ。

シアマは一度鑑賞すると理解できるように、女性を中心とした世界を描く。『燃ゆる女の肖像』は18世紀のブルターニュの孤島で、画家の女性と令嬢が恋仲になる物語だ。近作の『秘密の森のその向こう』では、失踪した母親が森の中で少女となって現れ、幼い主人公と友人になる。いずれの作品も映像が美しく、内容的にも傑作と言えるものであるが、女性の神秘性が過剰に表象されるところに少なからぬ違和感を持った。

プルーストにおいても、女性は未知の存在として主人公の欲望を喚起する。そして主人公は女性に接近を試み、我が物とするが、次に待っているのは幻滅だ。いわば『失われた時を求めて』は女性の神秘のヴェールが剥がれ落ちる物語であり、他方で生身の女性が立ち現れて消えていく「通りすがりの女」の主題が特権視される。「通りすがりの女」は現実と夢想の両極を満たすゆえのことだ。

他方でシアマに見られるのは、執拗な女性の神聖性であろう。これを女性の映画監督が描いている点がさらに理解を困難にする。僕にはそれが女性の神秘性という「通念」との結託のように見えてしまった。自らを含む女性を「深く、理解しがたく、神秘に通じており、到達不可能な存在」と見做し、表象する様子が見て取れるのである。これを到達不可能な女性との関係が世界=セカイの崩壊へと発展する日本の一連の作品と連続したイメージで捉えることは暴論かもしれない。しかし僕はシアマが描こうとする女性の神秘をやや懐疑的に眺めてしまう。むしろ問題は神秘が溶解したあとの現実との対峙であり、その際に他者として立ち現れる女性と自分が抱える二つの世界の根本的な差異だ。

プルーストはこの事実を前に理解不可能な他者から離れ、芸術の読み解きによって他者の世界との交流を目指す。その孤立は深い共感を呼びながらも、我々が追体験できるものではない。シアマの『秘密の森のその向こう』で日常に回帰した母親が、タイムトラベルの神秘を超え、主人公の少女といかなる現実を紡ぐのか。僕の関心はどうやらその先にあるようだ。

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