抽象思考を個人的経験に落とし込むことで

昨日届いた研究誌を読みながら今後のための考察を練り上げている。去年のシンポジウムの報告書を読みながら、研究仲間がアメリカの思想に基づいて指摘した「個別」と「普遍」の関係性に目がとまった。

言うまでもなくアメリカ合衆国は複数の州(≒国)の連合体であり、その性質は過去の13州時代には特に際立っていた。個々に違う州が連合し、統一体である「連邦」が存在するが、そこで様々な問題が生じる。「自分」たちを一つに組み上げたところにある「連邦」という「上位概念」は、経験によって感じ取ることができない以上、個人はその概念を思い描くことしかできない。そのときに連邦の理念が州のイメージによって恣意的に解釈され、抽象的な倫理はいいように歪められる。

「普遍」なるものを見たことのない僕たちは、結局自分たちの体験から「普遍」に迫るしかない。これは「自由」「平和」など、様々な概念についても当てはまる。結局僕らは「目に見えるもの」からしか「目に見えないもの」を想像できない。

そういえば昨日は新日本プロレスでウィル・オスプレイとSANADAのシングルマッチがあったが、アクシデントのようなレフェリーストップがあった。その詳細はここでは述べないが、何の予備知識もなく試合を見ると、「オスプレイがSANADAに執拗な打撃を加えたことで試合が終わり、その後でSANADAの怪我が発表された」という展開に見える。しかしどうやらオスプレイの蛮行は、「試合途中でSANADAが深刻な怪我をしたことを把握したため、起点を効かせてレフェリーとともに試合を早く終わらせた」というものらしい。

さて、この予想は「プロレスにおいて試合展開は決まっており、選手のあいだでは暗黙の了解がある」という発想によって作られている。それゆえに、「試合中のアクシデントで選手が起点を効かせ、レフェリーストップになるような見せかけの行動を取ることで試合の形を作る」という予想が成立する。だがむろんのこと、プロレスの主催者がそのような内幕を明かすことはない。あくまでも視聴者は「想像」するだけであり、それに応じて物語が作られていく。「目に見えない物語」を想像する人間は、オスプレイの蛮行を「試合を成立するためのプロの行為」として経緯を払うが、その物語は公にはならない。それゆえに多くの人は「オスプレイが打撃を執拗に加えすぎたせいでSANADAが骨折した」という物語を選択する。「内幕」を見ることができず、想像するしかないことで、僕らの印象は容易に変化していく。

テレビ画面の向こう側を見ることができない僕らに、果たして国家が見据えられるのだろうか。普遍性をわかったつもりでいる自分は、結局自分の経験を普遍性のイメージに焼き直しているだけだ。目に見えないものは、目に見えるものの向こう側にある。それならばせめて目に見えるものをしっかりと観察し、冷静に分析せねばならない。それすらままならぬ僕は、今日も事実とプロパガンダのあいだを歩く。「これが真実だ」と断言する声を、僕は信頼することはできない。

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