さほど良いことがない世界を生きる

自分一人であれば気が楽であるかもしれないが、家族がおり、次世代を生きる子供が二人もいると、日々のニュースに気が滅入る。特に近年は災害、感染病、戦争と、絶望せよと言わんばかりのラインナップだ。SNSを見れば底の浅い発言が乱れ飛び、政策は慎重を装いながら後手に回って進んでいく。フラストレーションを抱えながら、所詮個人に変えられるものは限られているため、鬱屈した気持ちで日々を過ごす。今は驚くほど「良いことがない」。

しかし希望があろうがなかろうが、日々の営みは止まらない。明日がくればやるべきことをやらねばならず、子供は学校に行かねばならない。自分がなせることは極小の営みであり、それを止めると周囲に問題が生じる。良いことのない世界は、個の歩みを止めることで好転することはない。

僕らはどんな立場にあっても一個の身体である。その身体が関わる場所を少しずつ増やし、できることを拡張していく。

若い頃、右肩を脱臼し、今でも上から振りかぶると肩が外れる。ヨガなどをやると、ときおり右肩が不安になる。だが、上から振りかぶるのではなく、下から上に腕を振ることは可能だ。

ペタンクは下から上への動きで鉄球を投げる。ゲームだから一人ではできず、人と交流することが必須だ。身体のグラデーションを超越するスポーツの極北がボッチャだとすれば、ペタンクは少しだけそのレンジが狭く、人によってはボールを投げられないだろう。だが幸いにも僕は鉄球を投げることができる。ゆえにボッチャから少しだけスポーツの幅を拡げることができる。

良いことがなくても、地面と鉄球があればボールを放ることができ、人と繋がることができる。世界の分断には、世界との結合によって対抗していけばいい。

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