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命題に囚われぬように

フリック入力が得意だが、noteを始めてからは執筆のペースを遅くするために物理キーボードを使用することにした。「キーボードよりもフリック入力の方が早い」という自負があり、自慢げに話していたこともあるが、一度習慣を変えるとすぐにキーボードの方が得意となる。今さっき物理キーボードが壊れたので、久しぶりにフリック入力で文章を書いてみる。iPhoneの感度が悪くなっており、ストレスが強くなる。

「キーボードよりフリック入力が早い」

「◯◯は××だ」といった「命題」のような言葉は、自分の感覚を切り取り、固定化する。言葉で明確に語ることにより、自己暗示がかかるかのように技術がついてくる。しかし「命題」によって意識から消える何かもまた存在する。時として命題を設けながら、つねに命題を疑い、自分を「変化」の中に置かねばならない。

自分は◯◯なタイプだ。
趣味は◯◯だ。
◯◯には興味がない。

旗幟鮮明な態度でアイデンティティを確立する一方で、自分が言説に縛られていくことを感じる。短い命題に反するように、プルーストの文章はとんでもなく長く、一面的な解釈から逃れ去る。

自分自身すら理解できるはずもなかろうに、マグマのような内面を命題によって切り分け、単純化された人格を意識しては安心する。しかし時としてそのような言葉で容易に切り分けられない自分が、言葉の外側から滲み出ていく。

自分においてすらそうなのだから、他者を一言で語ることなど容易にはできない。堀辰雄のプルースト受容の研究を続けているが、何かわかったつもりでいる自分が我慢できない。あえて理解を混乱させるように、小林秀雄の初期作品の理論を追い、プルーストと堀の議論に接続させようともがいてみる。

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