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表面的な自我に惑わされず

妻の第二子の出産が近い。今日の診察は、そのまま分娩になる可能性もある。5歳の息子は産院に立入禁止であるため、専属の託児所に預けることにした。

初めての環境に弱い息子だが、それは「親の印象」である。息子が僕に見せる甘えや我儘は、対面の中での「表面的なもの」に過ぎない。息子の内面は僕にもわからない。「知らない場所に預けると嫌がる」という親の想像を裏切ることは十分にあり得るだろう。

まずは息子を信じて任せる。

大学は「オンライン授業」のさなかにある。「授業はライブだ」との価値観はZOOMによるリアルタイム授業を後押ししている。対して僕はYouTubeに講義動画を載せ、Facebookの教育版のようなGoogleクラスルームで課題配信を行なっている。オンデマンド型の講義であり、授業時間に学生を拘束してはいない。6月にZOOMを使用する予定ではあるが、今のところはリアルタイムのやりとりをしていない。

僕と学生のやりとりは、課題を通じた文字のやりとりに尽きる。しかしその試みは非常に興味深い現象を引き起こしている。文字を媒体として、学生の「言葉」が次々と紡ぎ出されるのだ。少なくともこれまでの対面式コミュニケーションにおいては語られることのなかった内面性がどんどん発露されていく。

自粛によって僕らは「対面」を妨げられ、それが「対面」への欲求を駆り立てることとなった。確かに「対面」には「場を共にする」という意味がある。対してプルーストが「表面的な自我」「深い自我」という言葉に基づいた分析を展開していることを忘れてはいけない。我々が対面式コミュニケーションにおいて発信している言葉や態度は、真に我々の「深い自我」を発露させたものなのか?おそらくは多くの場合、我々は空気を読み、相手を警戒し、自分の「深い自我」を内奥に潜ませたままではないか。

2000年代初頭のmixiブーム以来、我々は「リアルの友人とSNSで繋ぎ直す」という経験を繰り返してきた。今、SNSは「正義」の応酬や「表面の充実のアピール(リア充)に費やされているが、個々の内面を文章で語るとき、表面では窺い知ることのできなかった他者の「内奥」に触れる瞬間があった。少なくとも僕は文章が「内奥」を映し出すことを信じている。そしてGoogleクラスルームで寄せられる学生の「論述」には、確実に表面性を超えた「深い自我」を感じ取ることができるのだ。

ZOOMによるリアルタイムを選び取ること、対面を重視することを否定するつもりは一切ない。だがその一方で、対面式コミュニケーションによる学生の「深い自我」の発露の限界も認めねばならないだろう。今後オンライン授業が縮小に向かうとしたら、僕の課題は「オンラインによるコミュニケーションを対面授業で再現するにはどうすればよいか」ということになる。リアル=現実とは何なのか?対面であれば「現実」と言えるのか?オンラインが「現実」の表象となることはないのか?この課題は「他者の内奥」「他者の自我」「他者の現実」をめぐる議論へと真っ直ぐに繋がっている。

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