社会の「喪失」の二重性

九月になり、例年のプロジェクトで故郷の青森県弘前市に滞在した。弘前では基本的に宿は取らず、実家に泊まっている。実家を離れて長いので、生まれ育った家ではあまり落ち着かず、妹家族に招かれるなどして、「客」としての時間を過ごす。

結婚、死別、出産を経て、家族は変質し、新たな家族へと接続される。

この期間にクローネンバーグの新作を見たり、戦争ドキュメントを見たりしていたのに、今から語るのが『クレヨンしんちゃん』ですみません(笑)しかしこの映画には過去30年における家族の変質が表象されている。

本作は全篇CGで作られており、アニメーションは一切出てこない。内容は宇宙から白と黒の二つの光が飛んできて、白を浴びたしんちゃんが超能力を身につけ、黒い光を浴びた男と対決する、といったものだ。ストーリーはさほど珍しいものではなく、過去の作品と比べて展開も凡庸である。それでいて本作は「しんちゃん」の30年を焼き尽くすようなテーマ性を帯びている。

本作の「敵」である非理谷充(ひりや みつる/非リア充)は30歳のフリーターで、恋人や友人を持たない「無敵の人」である。「社会の底辺」を自覚する非理谷は、超能力の力で自分を否定した社会の転覆を謀る。

生の手応えを喪失した非理谷の30年は、アニメ「しんちゃん」が誕生し、人気を獲得して社会に定着した期間と符合する。この期間の「喪失」については改めて語る必要もない。「しんちゃん」の30年は「無敵の人」の創出に相当する時間である。

30年間で喪失されたものは経済的なものばかりではない。技術の高度化により、映画館からはフィルムや映写機が失われた。日本のアニメーションが世界的な地位を獲得した30年は、シネマが形態を変えた時代にも相当する。アニメーションではなくCGで制作された本作は、いわば「喪失の表象」である。

我々はここで喪失の二重性に気づく。旧来的な価値観が失われ、社会には孤立化した「無敵の人」が跋扈している。劇中で非理谷は「この国には未来がない」と子供に向かって叫び、幼稚園に飾られている「プロ野球選手」「サッカー選手」といった「夢」の絵を焼き尽くす。

だがフィルムがデジタルへと移り変わるように、喪失は新たな価値への転換を指し示している。おぞましいのは過去の価値観が機能しないことを見ようともせず、安定を望んでは転職を繰り返す大人が、子供に単一の「夢」を語らせることだ。

非理谷のルサンチマンは両親が離婚し、スポーツや勉強でもパフォーマンスを発揮できないことによる。徒党を組む「リア充」の子供は、孤独な非理谷を侮蔑し、追い込んでいく。非理谷を縛り付けるのは、旧来的な「家族」のイメージ、能力主義、コミュニティへの憧れに他ならない。それはあたかもアニメーションの物質性が失われ、デジタルベースにシフトした時代において、旧来のフィルムと映写機のシネマへの郷愁を語る行為にも似ている。政治社会の不満を嘆いても、否応なく時代は展開し、我々はブラウン管とVHSの代わりにスマートフォンでTverの見逃し配信を見ているだろう。

強固な家族とコミュニティを求め、自身と他者を「内外」で分けたときに、僕らは「排除」を肯定する。コミュニティに身を置いたとき、優劣を根拠に「上下」を自覚し、下を圧しては優越感に浸る。非理谷が意識するのは能力主義での敗北による「下」への圧力だ。

「しんちゃん」の父ひろしの評価は30年で変質した。正職に就き、家を持ち、車に乗り、妻と二人の子供と過ごす人生は、ある時期から羨望の対象として捉えられるようになった。映画冒頭でひろしは非理谷に手を差し伸べるが、非理谷は頑なにそれを拒み、自身のルサンチマンを強化する。だが作品全体を通じ、ひろしは家族コミュニティを緩やかに開閉し、常に非理谷を受け入れる。問題は他者の家族コミュニティを神聖視し、近づけずにいる非理谷本人にある。

結果的に非理谷は主人公のしんちゃんの手でトラウマを克服し、他者との連帯へと踏み出していく。しんちゃんは作品全編を通じて「友情」に固執せず、幼稚園ではつねにオルタナティヴな存在だ。一人でいることに慣れたしんちゃんは、同時にコミュニティをいとも容易く拡張する。事実、野原家は不可侵な「核」ではなく、異質なものを取り込み、自在に伸縮している。ひろしは非理谷に「家族を作れ」と説教することなく、「誰かのために頑張れ」と言い、サブキャラを含めて家庭での夕食へと招き入れる。家族を作ること、結婚をすること、子供を持つことを強いられる旧来の価値観は解体され、他者と生きる緩やかな連帯の中に拡張可能な「家族コミュニティ」が存在することが描き出されている。

「この国には未来はない」というのはある意味では真実だろう。だがその言説の本質は、旧来の価値観へ従属し、幼少期に「夢」の幻想を持たせて「子供らしさ」を楽しみ、子供の能力開発に勤しむ大人のおぞましさと切り離せない。社会は変質し、家族は拡張する。にもかかわらず過去の価値観に縛られ、他者を「内/外」「上/下」で排除・圧殺しようとする「卑劣な弱さ」こそが、社会に「無敵の人」を産み落としていくのだろう。

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