善なるものに潜む根深い暴力性

日々、飽きずにインプットをしているため、実は書くことに溢れているのだが、その活動のすべてが研究に向かっている。僕のアウトプットは研究を成立させるためにあり、研究の実践が日々の授業だ。学会発表が近くなると他の方法によるアウトプットが働かなくなるようで、結果noteも月1がせいぜいとなる。まあ、わかりやすい言い訳である。

僕が生業とする国際文化学の研究は、文化と文化の関係を問うものであり、異質なものが接触することで様々な文化の副産物が生まれていく。世界には異質な文化がひしめいており、それらは他の文化と何らかの関係性を構築することで、同一空間において相互が存在できるようになる。これは決して大袈裟なことではなく、異なる常識や価値観を内包する複数の人間がひしめくコミュニティの基本的な性質だ。僕らは他者の前提を共有できず、自らと異なる常識を暴力的に感じ、多かれ少なかれ圧迫感を抱いて世界に存在している。

過去何度も述べてきたが、僕が最も嫌悪するのは「映画館で音を立てる高齢者」だ。毎回席の近くでビニール音を立てられ、携帯電話を鳴らされる。本当に許せないので僕は毎回注意をするのだが、自らの「価値観」を疑わない高齢者は、注意された瞬間に心臓が飛び出るような驚愕の表情を浮かべる。彼らは「持ち込み禁止の食品」が存在する意味を知らず、自分の私生活の延長線上に映画館を置き、生活音を持ち込むことを当然のことだと思っている。そこに異なる価値観——公共の視聴空間で私的な音を立てるべきではない——が挿入されることでフリーズを起こすのだ。

白石和彌監督の『碁盤斬り』は、僕らの常識の枠外に存在する様々な価値が多面的に衝突する作品だ。物語内では、元々暴力描写を得意とする白石ゆえのポリフォニーが展開される(この映画を鑑賞しながらチューチューと耳障りな音を立てて何かを食べていた高齢者を僕は決して許すことはないだろう。たとえ心臓が飛び出るような表情で驚き謝罪されたとしても)。

主人公・柳田格之進は彦根藩で同僚の讒言に合い、妻を失って浪人となり、娘とともに江戸の貧乏長屋で暮らしている。彼が讒言を受けた理由は、得意とする碁の手合わせで柴田兵庫の粗暴な打ち方を見下すような表情を浮かべたからだ。実直な性格である格之進の不遇は、人間の悪に触れた不条理として解釈できるが、ニーチェを引くまでもなく善悪は相対的なものであり、立場の「差異」に他ならない。映画館のボリュームゾーンである高齢者の常識は、僕が求めるものと異なるものであり、もはや映画館のマナーを逸脱することが(相対的な)常識となっていることにも似ている。

実直ゆえの潔癖さが引き起こした暴力性として読み取れる。他者との接触において実直さを貫くゆえに、格之進は常に他者の価値観と軋轢を起こす。原題を生きる我々にはおよそ理解できない思考回路で潔癖さを貫く格之進は、兵庫との確執に決着をつけるために仇討ちの旅に出る。その実直さが生む暴力性は、貧しい生活を強いる自らの娘を犠牲にする。

格之進、そして娘・お絹の不遇は、女郎宿の女将や賭け碁を仕切るやくざの長兵衛によって救済される。これを「人情」と読み解くことも可能だが、社会の暗部を生きる二人は暴力によって他者を制圧する存在でもある。いわばこの物語の大団円は、暴力性を抱えた人間たちの思惑が一つの特異点において一致したことによりもたらされる。僕らの常識に横たわる善悪の二元論はいとも簡単に踏み越えられ、交わらぬ様々な声が織りなす不安定な土台が、奇跡的に重なり合った一点によって支えられているのだ。

安定した生活に目をこらせば、人間の思惑が網の目のように絡み合い、関係性は常に揺れ動く。昨今コミュニティがもてはやされているが、構成員の分だけ常識が異なる人間の集団が安定した基盤を築くことなど一切信じられない。社会の暴力性に正義感溢れる義憤を展開させる人間ほど醜悪なものはなく、高齢者のマナー違反をとがめる僕も暴力性を抱えている。何事も生じない日々は不安定な土台で支えられており、それが崩れ去ったときに他者の抱える異質な価値が剥き出しとなる。僕らは人情話の奥に潜む根深い暴力性を見逃してはいけないのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?