『シモーヌ』に見る二つの力学

ダチョウ倶楽部が上滑りをする様子は珍しいものではなく、多くの場合その空気感が笑いに転じる。おそらく別人が同じことをやっても笑いは起きない。ここで機能しているのは、芸の外側で認知している肥後・寺門のキャラクターだ。多くの場合において、コンテンツはそのコンテクストを形成する「現実」を参照する。

ダチョウ倶楽部のような邪気のないお笑いの対極の話題で申し訳ないが、『シモーヌ』の主人公、シモーヌ・ヴェイユの言動は、つねにヴェイユの人生を参照して解釈される。

10代の頃にナチスの強制収容所に入れられ、家族を失ったシモーヌ・ヴェイユには、アウシュビッツの生き残りであることがつねにつきまとう。政治活動において中絶法に反対する姿勢を示すときは、ヴェイユが他ならぬ「女性」であることが参照される。評価も批判もつねにヴェイユの抱えてきた「現実」と切り離すことができない。だが本作は希有な人生ゆえの不可避的な現象に真っ向から対峙し、安易な物語化を拒絶するように編み込まれているように思える。

ヴェイユの物語が編まれる時、我々はアウシュビッツの壮絶な体験を冒頭に添えてイメージする。だが本作はクライマックスを構成するべき中絶法をめぐる議会の様子が冒頭に置かれる。強制収容所の陰惨な過去は容易に言及されず、戦後に社会的な生を確立しようとする若きヴェイユの物語が、名を成した晩年の描写と交互に描かれていく。

この複雑な時間軸に翻弄されながら、僕らはヴェイユの行動が常に「閉ざし」の力学を問題視し、「開き」の方向へと一貫して進んでいることに気づく。中絶法はもとより、囚人の待遇改善、アルジェリア戦争の戦争犯罪者たちの扱い、エイズ患者を巡るものなど、ヴェイユは閉ざされた空間に捨て置かれる人々の解放とともに人生を進んでいく。その極点は当時の社会環境にあって家庭につなぎ止められようとしたヴェイユと重なり、さらにその根源に自由を剥奪された強制収容所の経験が据えられる。

囚人・捕虜・女性の解放といった社会問題は、ヴェイユの遭遇した陰惨な社会=ホロコーストと関連付けられる。だがその結節点は、自由を妨げられ、家庭に従属されるシモーヌ・ヴェイユ個人の生だ。未曾有の虐殺劇も、社会的マイノリティが直面する不利益も、当事者ならぬ僕らが察するには余りある。だが僕らは思考を紡ぎ、他者の悲劇を追体験せねばならない。ヴェイユにはつねに「閉ざし」の力学がつきまとっているが、日常の「極」を探ると、戦後の家庭につなぎ止められる主婦の姿が見えてくる。その葛藤は、何らかの形で家庭や職業につなぎ止められる僕らの姿そのものだ。

弱々しい一個人であるシモーヌ・ヴェイユの人生を駆け抜け、作品の終盤で初めて僕らはアウシュビッツの「過去」を目にする。主婦であるヴェイユが囚われた「閉ざし」の力学を追体験し、僕自身が「閉ざし」の中にいることを実感した今、僕は「資格」の有無を超え、アウシュビッツの悲劇に立ち会う。

僕は東日本大震災を「ある程度」経験し、民族浄化に巻き込まれたことはない。震災を語る他者に資格を求め、他方でウクライナの戦禍に口を出すことに抵抗を感じる。だが他者の悲劇を追体験する術は自分の精神に備わっている。ヴェイユは国を超えたEUによる民主主義的な「開き」の連帯を追究した。ナショナル・プライオリティが喧伝される10年代を経て、コロナからの解放を願う僕が、国際的な連帯を「夢物語」として昏く嗤うことなどできはしない。

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