「際」に集い、創造をする

久しぶりに動けないほどの疲労感で、今日の予定をすべて調整し直すことにした。疲労の元は二日間行われた「未来の学びと持続可能な開発・発展研究会(以下:みがく研)」の年次大会である。

年次大会が神戸市長田区で開催されたのでオンサイト(対面)で参加したのだが、家庭の事情もあり、子供を同伴することになった。初日の長田のフィールドワークを子連れで行い、二日目は単独での参加が可能となったので研究発表を行ったのだが、どうやら「多様な負担」が一気に来たらしい。

とはいえ「疲労」はトレードオフのようなものだ。多方面を気にするから疲労が生じるわけであり、研究会のコンテンツが楽しくなければ育児と議論の意識分散すら起こらない。双方別の体力・知力を使ったゆえのことであり、疲労は研究会が充実していたことの証左だ。

子育てと研究は粗い二項だが、ここがすべての出発点となる。自分が二つの文化の接触の極点となる。異質な文化が接触し、変容することはすでに何度も述べている。具体的には研究会の手法に応じた子育ての仕方が発見されるとともに、研究会メンバーの手を借りることでの新たな気づきや交流がしょじる。その仲間との信頼関係が議論への集中力を高めるとともに、子供の視点が入り込んだ新たな発見が可能となる。文化触変は偶然へと開かれるため、創造性へと繋がる(この偶然性がどのように統合され、いかなる平衡状態をもたらすかはまた別の話題だが)。

この偶然と創造は、研究の現場においても有効だ。文化触変論を応用するならば、異分野の専門性を持つ人間の議論こそがそれに相当する。自分たちの専門性を他分野との「際」に置くことが議論の始まりであり、昨日の年次大会はまさにそのような空間だった。しかし研究会全体に満ちている「楽しさ」「気楽さ」は何なのだろうか。おそらくこれこそが「際」の特性である。自らの専門性から少し動いた場所は「プライベート」でもなければ「本業」でもなく、必然的に「サードプレイス」としての様相を具えるのだ。

僕らは「際」への移動を「専門性の追加」として大袈裟に捉えたり、あるいは「遊び」として軽視したりするかもしれない。だが本質はその二項の融合なのだ。そして緊張を解き、「不真面目」のスタンスを選択することによって、僕らの議論は偶然性へと開かれていく。それは「余所の子」を気楽にあやすことが日常に気づきをもたらすのと同じメカニズムだ。

研究会の合間に長田の町を歩いた。地元のカウンターしかない居酒屋が、昼の短い時間だけ定食を出していた。「土地のもの」でも「名物」でもない定食を頼み、店を出て、UCCの看板が掲げられた煙草のにおいが染みついた喫茶店でコーヒーを注文する。むろんこれらは捏造された名物などではない。町に少しだけ不真面目に侵入し、あえて長田に過剰な意味づけをせずに、剥き出しの暮らしに接続を試みる。言ってみればこれも自己と他者の「際」の浮遊だ。その偶然の出会いがことのほか面白かったので、おそらく僕は長田をまた訪問するだろう。

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