初等教育と初修外国語の連続性

子供の参観日だったので、自分の授業後に小学校へ行った。本来は子供の姿を見るものなのかもしれないが、職業柄、教員の授業風景をじっくりと観察する。

小学校の授業では、落ち着きにばらつきのある子供に一斉授業を行う。当然ながら前提として担任制があり、できあがったクラスの一幕を見せてもらう。その条件は、15回ごとにリセットされる大学の授業風景に通じている。新たな受講者を迎え、集中力や関心にばらつきのある受講者に対していかにして一斉授業を提供するか。そして僕らには画一的なメソッドが存在しない。それゆえに大学教員は(大学での教育メソッドの習得=FDを除き)必要に応じて自分で授業作りを学んでいくことになる。

提供する素材の特質、学習者の年齢により、小学校と大学の議論を並列に論じることは難しい。しかし声がけ、活性化、黒板の使い方など、さまざまな仕組みによる授業コントロールは、僕らの教室内の所作のヒントとなり得る。ばらつくリアクション、関心の差などを超え、限られた時間の中で児童が学ぶ様子は、我々の授業風景と変わるものではない。教材研究やタイムスケジュールの構築など、自身の授業作りの参考となる様々な要素を見出すことができる。

僕らがオンライン授業に切り替わったころも、小学校は対面を継続していた。大学の対面授業がリスタートし、勘の鈍りと、オンライン文化の導入による授業そのものの変化を意識する。新たに生まれ変わる授業の中で、教員は何に学び、何を吸収するか。初等教育の知見に加え、中等教育ではどんな要素が見出せるのか。異なる学習環境の比較分析と吸収の果てに、児童から社会へと成長を繋げる「トランジション」の手法を獲得できるのではないか。

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