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選択と排除

忙しさは得てして主観的なものであり、多忙を嘆くと「そんなのはまだ甘い」などと「マウンティング」を受ける。そのような批判の影には、忙しさに対する「客観的な」比較があるのだろうが、客観性が主観性に勝ることのメリットとデメリットはつねに抑えておきたい。「目の回るほどの忙しさ」が客観的にどのレベルなのかは知らないが、少なくとも僕は忙しくて目が回っている。

この状況で「選択できること」などたかが知れている。「これをやる」と決めるとき、「これ」という指示代名詞は「これ以外」を捨てている。「選択」を逆から捉えると「排除」だ。忙殺される日常の中での選択が、その他の数限りない何かの排除の上に成り立っていることに思い至る。

日曜日に一つの選択をしたことで、バドミントン部の用事を捨てざるを得ない。少ない研究時間で一冊の研究書を読むとき、膨大なテクストを排除している。家族と時間を取ると、学生との時間が犠牲になり、その逆もまたあり得る。時間を「費やす」ものと、時間を「費やせない」ものに囲まれて日常を生きねばならない。

あるところでは一つの正義が語られる。正義に与しない人は、正義の名の下に鋭く批判される。だがその正義の影に、選び取られずに排除された無数の正義が存在する。『ダークナイト』のジョーカーすらも、バットマンが排除した無数の正義を浮遊しているのかもしれない。選択と排除は、「正義と正義のあいだの壁」を作り上げる。自分の目の前に立ちはだかる壁は、自分が排除したものによって構成される。壁を乗り越えるヒントは、自分の「選択」を再考察した先に潜む。

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