異質な言語空間における音の差異

フランス語について不思議な設問を見た。詳しくは書けないのだが、単語の母音の読み方を問うものである。「不思議な」というのは、母音の選択肢が日本語の「アイウエオ」だったことだ。

例えばBonjourを「ボンジュール」と表記してみる。これをローマ字にすると«bo n ju u ru»となる。ここでまずフランス語の単語との大きなズレが見て取れる。最後の«r»には母音がついていないが、日本語のカタカナ発音では「u」が挿入されてしまうのだ。

またフランス語の«ou»の部分をカタカナで表記すると「u」となる。この音は日本語の「ウ」の音とは異なるものだ。また日本語の「ボン」は、多くの場合フランス語の鼻に響かせる«bon»と一致しない。カタカナ表記と比較するだけでこれだけの差が生じてしまう。

フランス語の母音に日本語のカタカナを当てはめると、本来は存在しない母音が挿入されたり、異なる音が当てはめられたりしてしまう。カタカナは近似値であるし、僕もProustを「プルースト」と表記する。« pu ru u su to »と発音してもフランス人にはわかってもらえないにもかかわらず。

カタカナでの外国語の再現は差異を孕む。他方でそれを知りながら、日本文化に転移したフランス語にはカタカナを当てはめる。言語文化の差異はここに潜む。同時に、カタカナで表す母音によって再現できるフランス語も存在する。問題は差異を知っているか、知らないままなのかということだ。そしてその差異は身体上で再現される。身体の機能が大きく変わるところがないのであれば、自分の身体において差異を超克できる。

外国語学習は身体で感じる差異への気づきと超克であり、異文化の差異を感じつつも、その文化の作り手が自分と同じ人間であることを実感する機会となる。差異を「近似する別物」で塗り替える手法は、異文化体験の喪失を意味しているのではないだろうか。

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