失われた日常を書くことで取り戻す

一週間ほど更新が止まっていたのは、家族にノロウイルスが蔓延したことによる精神的な疲弊が原因だ。次男の保育所でノロウイルスが流行し、夜間の嘔吐で体力を削られ、治ったかと思ったら長男を皮切りに家族内流行。僕も症状があったにもかかわらず、すべてに対応することとなり、やっと終わりが見えたら次男がぶり返すという無間地獄を迎え、さすがに精神の糸が切れた。ようやく回復したと思ったら長男が通常(?)の風邪になり、再び小児科へ出向く。週末は事情があって子どもたちの面倒を見なければいけなかったので、十日余りにわたって家族の事情に時間が取られてしまった。そのため諦めねばならなかった仕事もいくつか生じてしまい、今も十日間のストップのあいだに貯まったものに対応を強いられている。

子どもたちの体調が回復しながらも、家にいなければいけない状況にあって、できることと言えばゲームくらいだ。個人的にゲームには興味がないのだが、レトロゲームも射程圏内の長男が持っているソフトであれこれと大戦をすると、次男は画面をエンタメと捉えて楽しんでいる。Eスポーツの起源を垣間見た感じだ。

F-ZEROなどのレーシングゲームなどを画面に映すと、スピード感に身体が反応する。この現象をどう説明すればいいのかわからないが、子供が鉄道や車を好きになる理由もこのあたりにあるのだろう。眼前に高速で動くものが立ち現れることで、身体の中が動くような錯覚に囚われる。他者の動きに身体が連鎖し、共鳴するという、極めて原始的な身体反応だ。子供と鉄道の関係の延長線上に、ゲームのキャラクターの超人的な躍動がある。

結局のところ、僕らの感覚は極めてプリミティヴな身体を根拠とする。他者とわかり合えない一方で、僕らは身体の共通性により、その感覚を追体験する。療養時のゲームも、週末に子守をしていた僕がたどり着けなかったスタジアムでの選手たちのプレイも、文学に表象される各種主題も、僕らは己の身体によって了解し、体験する。言い換えると、鬱屈は身体の束縛によって生じるのだ。十日余りの事務仕事の束縛に抗うために、とりあえず身体について書くことから日常を取り戻す。

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