見出し画像

時間を譲り渡す

スーパーファミコンで時代が止まっている僕にとって、「マンインクラフト」「あつまれどうぶつの森」といったゲームは未知の世界であり、すでに五歳の息子に勝てる気がしない。両者ともに自分の世界を構築するゲームであり、息子はひたすら勤勉にエリア内を作り上げている。いわば自分の「城」を持ちたいという根源的な欲望だろう。世界を創造し、コントロールする。自分がルールとなり、他者の強制
に無縁な世界を生きたいという意志が感じられる。

ぐずる次男を抱きながら、新作エッセイ『猫を棄てる』を読んだ。村上作品のテーマの一つでもある「父親」について、直接的に個人史が語られていく。幼少期に特有の「未分化」の関係によって、父と子は強く結ばれる。しかしいずれ思春期が訪れ、子にとっての父は「他者」として再認識される。まあ、生まれ落ちた瞬間から父と子は「他者」であり、思春期はそれを再認識する機会だというのが正しいのかもしれないが。

庇護下にあるゆえに、息子が無駄にする時間は僕の時間に浸食する。あれこれと手がかかる分、フォローに体力と時間が奪われる。息子の時間と僕の時間は未分化なものとして一体化しているゆえ、最大スピードで手間をクリアする道筋が見えてくる。しかしそれは息子の行為を親が奪い去ることにも通じていく。

家族への時間の提供は、失われていく時間を見送る覚悟をつけることかもしれない。自分が主体的に「手間」をかけることは、必ずしも「時間を失うこと」とはならないだろう。手出しをせず、失われていく時間に付き合うことで、初めて家族の時間は動き出す。

少ない時間をやりくりし、マルチタスクをこなすことにはもう慣れた。ゆえに次はあえてタスクをこなさずに、流れていく時間を眺めてみる。自分が奪った時間を再び家族に戻していく。あるいはそれは学生に時間を返すことにも繋がっていく。あえてゆっくりと、いろいろなものを捨てながら進もうと思っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?