自らの物語をもう一つの「文化」と見做すために
新しい論文が査読を通過したので、3月に発行される。内容は昨年の七月に学会で発表した考察だ。
ここ数年、自分の精神に貼り付く文化について考えている。生まれて生活する中で、僕らは文化システムを体内化する。システムに従っているゆえに、日本のコミュニティの中では振る舞い方がわかっており、他者との無用な確執を避けることができる。
だが一つの文化に従っていると、その文化によって精神が呪縛される。自らが身を置く文化の中で賞賛すべきものを賞賛し、そこから外れたものは重視しないように。結果的に僕らは宗教物に敬虔な気持ちを抱き、国宝の前に緊張をし、大したものだと見做されない文化の前を通り過ぎる。
だが、文化の重要度を決めるのは必ずしも共同体ではない。個々の精神は時としてそのような取り決めに抗い、自分独自の価値観を主張する。
言うまでもなく我々は支配的な文化の中に身を置いている。しかし、その文化と個人の精神はつねに一致しているのだろうか。確かに文化は規範として精神を縛る。だがそこに圧迫感を感じ、自らの精神に従って事物を評価する事例も存在するだろう。
僕が考えるのは、自らの精神が持つ「体系」である。そして僕はそれを「物語」のようなものだと捉えている。自らの感覚や印象を貫く、表面的な文化要素を取り払ったとしても自分が自分として存在する骨格のようなもの——それを「真の自己の物語」と見做してみたい。それを自らの精神の深部に潜む文化体系と見做し、その上にコミュニティの文化体系が存在することを認めたときに、僕らは自分が複層的な文化を生きていることに気づく。
自分の深部に潜み、自身を一貫させる「物語」のようなものを、体系を持つ「文化」と見做すために何が必要か。それは自分の抱える虚構が現実世界の中で強度を獲得するためにどうするかを問うことでもある。
同じコミュニティに身を置く他者とのあいだには、理解以上に断絶がある。そのような他者の理解不可能性に対峙するときに、僕は各自の「物語」の差異に思いを馳せる。では自他の抱える文化の差異をどう越境するか——そんなことを数年にわたって考えている。
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