どうしようもない個の弱さを抱えて

新学期の忙しさに揉まれながら一歳年を取り、気がついたら4月も終わりだ。腰を据えて文章を書く時間がないわけでもないのだが、仕事でアクティヴに動く分、日々は受動的になる。読書や映画や試合観戦の数を重ねていると、自分が「現地」で何事かをしたような気になるが、思い直すと僕の日常は他者の創造に立ち会うだけであり、受け身の時間が増えていく。

『オッペンハイマー』はすでに多くの批評家に語り尽くされている。原子爆弾を生み出した科学者の物語は、クリストファー・ノーラン特有の作品構造、あるいは日米の国際政治と照らし合わされ、時にクリシェを差し挟みながら考察が展開された。日米戦争への言及は、司馬遼太郎を引けば軍部の暴走が語られ、山岡荘八を引けば白人の人種差別が語られる。原子爆弾を語る我々は、自らが信じる思想から自由になることができず、自己主張が言説のそこかしこに反映する。

個が意見を述べるという、ただそれだけの行為においても、個を超越したところにある政治が影を落とす。原爆を生み出したオッペンハイマーは、兵器の使用に臨んでは慎重な態度を貫き、しかし国の決定には逆らえず、結果的に原爆は投下される。一人の優秀な科学者も、マスの世界においては弱い個人に過ぎず、共産主義への接近が噂されることで、政治思想に絡め取られていく。

人はその思考や力により、文化を変容させ、新たなものを生み出すことができる。だが強靱な文化は個人を絡め取り、容易に変容を許さない。政治的な所作により、他者が圧殺されたところで、マスは容易に関心を示さず、悲劇の傍らで日常が続く。原爆が投下されたことを批判する人や、大いに祝杯を挙げる人が描かれる背後で、アメリカの日常は淡々と流れていく。ウクライナの悲劇を横目に眺めながら、自分の部署の些末な人間関係に注意を奪われる僕らは、悲劇の外側に暮らす大勢の人々を責めることはできない。

僕らの触知できる部分は限られており、視界の外側で展開する悲劇に関心を向けることは稀だ。だが強大な力は、弱々しい個を気まぐれに侵食する。

塚原重義制作の『クラユカバ』『クラメルカガリ』では、地上世界とは別の論理で動く「クラガリ」が日常のそこかしこに侵食を繰り返す。その闇から目を離して生活することは可能だが、探偵・壮太郎、そして地下の地図を作るカガリの生活に闇が接近する。軽い気持ちで引き受けた人捜しは、自分の近しい人を巻き込んでいき、町の全貌を掴むための地図作りは、地下から地上の転覆を謀る組織と接触するに至る。闇を見ずに生きることは可能であったとしても、人間は気まぐれに不可解な出来事に飲み込まれる。

不条理は人を選ばず、逃れる術はない。量子力学の実験は原子爆弾を生み、一般市民の上で大量破壊兵器が爆発する。職場の不和一つ解決できず、恨み節をぶちまけるだけの僕らは、地面の下に拡がるクラガリの力に抗うことすら危うい。そのような僕らはオッペンハイマーの所業も無力さも批判することなどできはしないのだ。

僕らの暮らす世界は危ういバランスで成り立っており、いつ均衡が崩れるかもわからない。そもそも均衡を失った人間の悲劇に、僕らはどれほどの気持ちを向けただろうか。闇はすぐ下に拡がっており、空爆は殺す個人を選ばない。情報が世界を近づけ、悲劇がメディアで再生されながらも、僕らはそれらしい政治思想を引用しながら、それなりに楽しく日常を過ごす。

個人がクラガリの魔の手から逃れた壮太郎は、探偵の日常に戻り、地下の勢力を振り切ったカガリは、炭坑の町に住み続けることを選択する。不条理に飲まれ、危機に手を触れ、それでもなお闇と隣接する日常を生きられるか−−原爆を超える兵器が生み出され、アラートが鳴り響く世界は、オッペンハイマーが作り上げた地獄を凌駕する闇の中に個人を招き入れる。

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