体験を意味づける人間の本質

能登半島地震は大阪でも長時間揺れた。東日本大震災以降、地震の揺れにはセンシティヴになっている。そもそも、ロマン主義に惹かれる文学研究者の特性なのか、何事も大袈裟かつドラマティックに意味づけを行う癖がある。一言で表すと「ビビり」だ。

震災は様々なものを見せたが、自分の本質はおそらく変わっていない。より地震に敏感になったが、これは元々の特性のようなものだ。妙な敏感さは僕に精神的負担を与えるが、そのために最悪のシナリオを回避するために考えを巡らせるようになる。今回の被災者も、感じ方はそれぞれで異なるため、安易に共感を示すことができない。支援が現地の希望に沿うことを願い、しかるべきタイミングで募金します。

『メンゲレと私』はアウシュビッツを生き延びたダニエル・ハノッホ氏の証言に基づくドキュメンタリーだ。全篇を通じてハノッホ氏が少年期の体験を語る作りだが、視聴しながら冒頭で挙げた「人間の本質」と「体験」の関係性を改めて考え直した。

アウシュビッツは「悲惨」「地獄」といった表現で語られる。実際、少年期に家族と引き離され、アウシュビッツで死体の処理を行った人生は「悲惨」そのものだ。しかし驚くべきはハノッホ氏の語り方にある。筆舌に尽くしがたい体験が、あたかも三人称の物語のように、実に淡々と語られるのだ。むろん、氏の語りには憤りや哀しみが潜む。だがその悲惨な物語は、ドラマ性を排し、わかりやすい言葉を選び取るかのように語られていく。

日本語タイトル『メンゲレと私』はミスリードかもしれない。ユダヤ人に残酷な実験を繰り返した医師ヨーゼフ・メンゲレは、ハノッホ氏の語りのごく一部を占めるだけだ。原題は“A Boy's Life”(ある少年の人生)であり、あくまでも一人のユダヤの少年の体験がテーマとなっている。解放も、福祉の支援も、兄弟との再会も、ドラマ性を極力そぎ落とされて語られる。観客が期待する地獄からの解放のカタルシスは、本作においては皆無に近い。

ハノッホ氏をこの世に繋ぎ止めたものは何なのか——強い感受性は、悲劇を増幅させ、感動の涙を要求する。ハノッホ氏は体験により感情を喪失したのか——本作を見た僕の考えは、ハノッホ氏の幼少期からの本質、すなわちドラマ性を反映させず、事実を冷徹に捉える性格こそが、ハノッホ氏の精神を守り、ホロコーストを生き抜かせたのではないかというものだ。

リトアニアで生まれ育ったハノッホ氏は、ドイツ人だけではなく、一般のリトアニア人、そしてオーストリア人に憎悪を向けられた。他方、大阪の震度3程度にメンタルを崩しそうになる僕は、「普通の人」たちの憎悪に触れると発狂するだろう。「人間はそんなもの」と思うこともできず、人との繋がりを極端に減らし、憎悪に対して憎悪を巡らせ、何年もその考えを改めることはないだろう。かつての震災の体験は、僕をいささかも変化させなかった。ただその本質を浮き彫りにしただけだ。災害を恐れ、人の闇を恐れる僕は、極限において間違いなく精神を崩壊させるだろう。ハノッホ氏は静かに人々の憎悪を語り、暴力性に包まれた時代を淡々と振り返る。そこには陳腐な運命論も、ヒロイックなドラマもない。

過剰なドラマ性を要求する勢力は、自らの物語を強固に信じ、大津波警報が発布された直後から、SNSはさっそくアクロバティックな政府批判や「お気持ち」で溢れかえる。狂乱から目を背け、サブスクリプションに逃避し、正月の「のどかさ」を演出した僕の所作も、ドラマ性の裏返しに過ぎないだろう。アウシュビッツを生きたハノッホ氏の語りは、災害と戦禍に溢れた世界に対峙するために僕らが取るべき「態度」を示しているのではないか。

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