ジャーナリズムの後を歩く
それなりに忙しいと何かを切り捨てでばならない。忙しい中で、本当に必要なことを選び取る。情報のアップデートは僕のような人間には必須だが、新聞を読む暇も限られてくる。
数日ほど新聞を読まず、気分転換の片手間にiPhoneを動かし、SNSのタイムラインを眺める。日々新しい情報が発信され、多くの人が社会や政治にメンションを飛ばす。それは時として怒りを帯びており、冷笑が加えられ、大喜利のような笑いに転換される。一日の中で、ジャーナリズムによって伝えられる情報は「二次創作」の素材となるまで一瞬で消費される。
乱れ飛ぶキーワードを横目で眺め、日々の生活を送る。毎日の社会事情に怒り、シニカルな態度を取る暇はない。富岳?ダーウィン?妊婦?よくわからないキーワードが脳の片隅にストックされる。そしてその話題は数日で消える。
三日遅れで古新聞を一気に読む。三日前に TLを賑わせた話題をようやく把握する。僕の状況把握までの数日間に、多くの怒りと嘲笑が生まれては消えていく。数日後に把握する記事にはさして感情が動かない。
ジャーナリズムが伝える事件を冷静に評価するには、おそらくそれなりの時間が必要だ。出来事は出来事として存在する。出来事と同時進行で付随する物語の恣意性は、数日後に際立ってくる。様々な言説がタイムセールのように飛び交い、あっという間に鮮度を失い、廃棄されていく。その裏で、また新たな「ネタ」が怒りと嘲笑を掻き立てる。
宇野常寛氏は『遅いインターネット』を提唱した。著作で宇野氏が言及する東浩紀は「ゲンロンカフェ」でひたすら長時間の対話を試みる。ウェブマガジンの手本となった糸井重里氏は、ゆっくりと良質な商品を作り上げる。ウェブマガジンで宇野氏が対談をしていた西野亮廣氏は、インターネットの喧騒に参加せず、長い時間をかけて絵本を作り続ける。
凄まじい速さで消費される情報の反対側に、ゆったりとした時間を生きる人たちがいる。あえてジャーナリズムの後を歩き、熱狂に満ち溢れた物語の創造から距離を取って、ゆっくりと着実に思考を紡いでみる。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?