日常がトラブル無く過ぎていくということは幻想に他ならない
新しいMBAを持って大学のWi-Fiにつなぐと、ソフトが立ち上がらない。情報処理関連の部署にヘルプを依頼し、担当者が三名よってたかって調べてくれた。まったく原因が突き止められずに1時間ほど経過し、どうやらネットワークのセキュリティ対策が邪魔をしていたことが判明する。チェックボックスを一つ外しただけで元通りになった。その間に僕は事務員の方に「ほぼ日手帳」を見つけられ、自分もユーザーだと言われて手帳の話で盛り上がっていた。
手帳からPCにデバイスが変化し、それを前提として生活を組み立てていても、少しのミスで止まってしまう。手帳はトラブルが少ないが、手帳でZOOMは使えない。
ようやく会議にログインでき、午後に研究室で予定していた私用の面談を楽しみにしていた。しかし次男を預けている保育園から「陽性者が出たため休園となる」と連絡があり、予定を取りやめて迎えに行く。研究のための三月は残り少なく、さらにその一週間は保育園が使えない。子供を預けることを前提としている生活はかくも脆い。そもそも今回のような感染問題がなかったとしても、子供がいつ熱を出すかはわかったものではない。
ギリギリのスケジュールを組み立てたとして、それがなんとか進んでいくのは、運良く「前提」が機能するからであろう。だがそのような「前提」は、ちょっとしたことで一気に崩れ去り、目の前にはギリギリで切り抜けられるはずだった膨大なタスクが積み上げられる。「無理」は自分以外の人間に支えられているという当たり前の事実を、僕はそろそろ把握した方がいい。
結局のところ、僕は子供を二人抱え、追加されるタスクの中で、あれもこれもやっていくことしかできない。だがこれは「育児」という文化と「研究」「業務」「教育」の融合を可能とする。子育ての視点から文学を眺めることで、テクストに集中する角度から離れて、少し変わった発見を得る。そのような重要だが細やかな見返りとのトレードで納得していくほかはない。都合良く勤務できる「前提」は存在せず、ただ現状に仕事を当てはめていくことしかできないと自覚し、子供を横目で眺めながらPCのシステムに翻弄される。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?