「みんなと同じ」の安心感とその中毒性
ある平日。
私は仕事が休みで、
自宅から電車で30分ほどの都会にいました。
脱毛サロンへ行き、その後は書店でゆっくりと面白そうな本を探し、結局「今持っている星新一を全部読み切ってから新しいのを買おう」と思い店を出た時、ちょっとした焦燥感が。
その正体はよく分からず、何に対して焦っているのだろうと思いながら向かった先はスターバックスコーヒー。
大好きなカフェモカを飲みながら星新一の『盗賊会社』を読んでいたのですが、小説の中に
「AIのようなものに『私に適切な趣味をお与えください』と懇願する列ができている」
という類の表現が出てきました。
そこでハッとした私。
「俺、『適切な趣味』を求めてここにいるのか?」と。
普段は片田舎で塾の講師をしており都会で過ごすことがほとんどないため、あまり周りの人間が何をしているかを見ることもないし考えることもありません。
さらに、かつて大学では情報学をかじっておりInstagramなどとは適切な距離感を保っている(つもり)なので、所謂「人目を気にして生きる」なんてことはあまりないんです。
そんな私が久しぶりに1人で都会に出た時、たくさんの人間を見て、無意識に「俺って浮いてないかな」と気にしてしまった。そしてハズレのないスターバックスコーヒーへ入ったのだと。
(スタバが大好きな方には本当に申し訳ない表現ですが、敢えてこのように申し上げます。申し訳ございません)
冷静に自分の行動を分析すると、そういうことだと分かりました。
ただ、自分がキラキラした空間で「イシキのタカイ」ことをしているのが、すごく誇らしかったというか、それに対しては安心感もありました。
「あ、俺みんなと同じだ」
「自分は今、周りから『普通の人間』に見えているんだ」
と、ホッとしました。
同時に「これ中毒性やべぇな」と思いました。
なかなかみんなと同じようにできなかった(しなかった?)、ここまでの約33年の人生。
何をするにも少数派に分類され、「あるある話」がまるで理解できない、そんな日々でした。
慣れました。なので、そこにもはや苦しみなどないのですが、どこかに「みんなと同じ話題で笑いながら愚痴を言ってみたい」という気持ちがあったのでしょうか。
1人でもいいから、みんなと同じようなことをしてみたいという気持ちが出てしまったのでしょうか。
近いうちに、また同じことをしているかもしれません。
あの日のカフェモカはいつもより甘く、そしていつもより苦く感じました。
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