山藤さんの忘れられない飛騨牛


ここに出てくる山藤さんが、別の、私との忘れられない夜についてエッセイを書いて私に送ってきたので読んでください。自分いい奴すぎて恥ずかしい。

ーーーーーーーーーーーーーーーー


熱海旅行をしそびれて近所のジョナサンで食事をして散歩した夜のことを、ゆっきゅんさんがエッセイにしてくれた。「忘れられない一夜」がテーマのエッセイアンソロジーに寄せたものだった。たしかにあの夜のことは忘れられない。もしわたしが「忘れられない一夜」のエッセイを依頼されたとしてもあの夜のことを書くかも、と思う夜だった。でもあの夜のことはゆっきゅんさんが書いてくれたしな。
考えてみて、もう一つだけ思い浮かぶ夜があったので、それについて書いて勝手にあのエッセイに応答することにした。

昨年4月のある夜、仕事が終わると、わたしと同僚にお弁当が差し入れられた。一つは飛騨牛しぐれ煮弁当、もう一つは名古屋うまいもの弁当だった。どちらもおいしそうだったけど、僅差でより気になっていた前者を「こっちもらってもいいですか?」と訊いた。すると、「たしかにしぐれ煮弁当おいしそうだね。じゃんけんにしよう!」と言われた。

もちろん、と快く応じようとしたけどできなかった。
そのときのわたしはあまりにも参っていて、じゃんけんに負ける余裕がなかった。コロナのせいで心のどこかがいつも落ち着かなかったし、友だちにもぜんぜん会えないから心のどこかがいつもさみしかったし、家の上の階の人がひとりでずっと話している声が心のどこかでいつも気になっていたりもしていた。そういう諸々のせいでもう全部が無理になっていることに、じゃんけんを求められたその瞬間にはじめて気づいたのだった。
同僚の顔を見る。同僚は結婚していて暮らしに寄り添ってくれる人がいるからきっとこんなには落ち着かない気持ちやさみしい気持ちにはなってないだろうな。上の階の人だって静かで快適だろうな。いいな。いいな。いいな。わたしは全部だめです。一方的に同僚と自分を比べにかかって、じゃんけんする前からもうとっくにこっちは負けているみたいな気持ちになってしまった。
この状況でじゃんけんに負けたらたぶん泣くけど、その涙は同僚から見たら「ありえないほど飛騨牛しぐれ煮弁当が食べたかった人の敗北の涙」になるのだろう。同僚にかなりの動揺を招くことは明らかだ。
結局、わたしはじゃんけんを辞退して同僚に飛騨牛しぐれ煮弁当を譲った。

帰り道、自転車のかごに入れた名古屋うまいもの弁当が揺れていた。高いお弁当のはずなのにちっとも魅力的に見えなかった。涙が出てきた。ここまでの流れを目撃している第三者がいたとして、この涙はその人から見たらやっぱり「ありえないほど飛騨牛しぐれ煮弁当が食べたかった人の敗北の涙」になるのだろう。ウケる。いやウケませんが。そんなことを考えながら絶え絶え帰った。

誰かに聞いてほしいと思うことがあったときに友だちに連絡するのは自分の中でハードルが高い。急にこんな話されても意味わかんないかな、と思ってしまって、ひとりでつらくなってしまいがち。でも、ゆっきゅんさんになら、急だし意味わかんないかもだけどちょっと聞いてよ!というスタンスで突然連絡してしまえるのだった。

LINEを開き、ここまでのことを泣きながら文章にしてゆっきゅんさんに送った。
すぐに既読がついて、「なんなん、もうええしってなるね」と返信が来て、そうなんすよ、本当そんなかんじなんすよという気持ちに。続いて住所を訊かれ、突然なぜだろうと思いつつとりあえず答えた。すると間もなく、「とりあえず飛騨牛を送ったから今週中に届くと思う」と返信があった。飛騨牛が食べたかった話じゃないことはもちろんわかってるよ、とも付け加えられていた。この数分のあいだに飛騨牛のしぐれ煮を送ってくれたの?!なんて判断力なんだろう。
この返信を見た瞬間に卑屈な気持ちはどっかに行って、ピタッと泣き止んでしまった。夕立がサッと止んでバーっと晴れていく、夏のあのかんじに似ていた。泣いて疲れたからか空腹を感じたので、名古屋うまいもの弁当を食べて、満ち足りた気持ちで寝た。

翌々日あたりだったか、飛騨牛のしぐれ煮が届いた。すぐに食べた。ものすごくおいしかった。危うく飛騨牛全般しぐれ煮全般がトラウマになりそうだったところをゆっきゅんさんに助けてもらえて本当によかった。トラウマどころかとっておきの一品になった。こんなに思い出深い食べものは他にない。
これから先、「飛騨牛」と「しぐれ煮」という言葉を見たり聞いたりするたび、ゆっきゅんさんが瞬く間に心を明るくしてくれたあの夜のことを思い出すだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?