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レヴィ・ストロースと歩く日本と構造主義

神田カルチェラタン
  神田神保町の古書店街を歩くのは学生時代から好きだった。平成前半のころは上京するたびにまる一日リュックを担いでこの町を歩き、それぞれ個性的な本屋を歩きながらお目当ての一冊を渉猟して歩いたものだ。古本屋は店によって「匂い」が異なるのが面白かった。私は当時おもに中国や朝鮮や言語学に関する本を物色してこの町を「徘徊」していたが、東アジア関連の書店は若干店内のにおいが異なるのは感じ取れた。
 たまには新鮮な分野の書店でも入ってみようと、何気なく現代思想関連の書店に入ってみることもあったが、東アジア関連の書店とは明らかに「匂い」が違うのはドアを開けるや否や気づいた。客層も違った。20代、30代も混じった東アジア専門書店とは異なり、ほぼ眼鏡をかけた白髪の中高年男性である。ふとぴんとくる言葉が思い浮かんだ。「神田カルチェラタン」である。
 私が「若者」だった2000年前後、すでに白髪の紳士淑女だった父母の世代の学生時代は、学生街であるこの町をパリ五月革命の影響を受けた若者たちが占拠した。1968年の夏のことだった。ヘルメット姿の彼らはバリケードを築いて立てこもり、「解放区」とした。そしてパリの町で口角泡を飛ばしながら革命について、社会について、世界について熱く語り合ったとされる町、カルチェラタンにこの町をたとえ、「神田カルチェラタン」と呼び始めたという。
 御茶ノ水駅から明大通りを進み、すぐ右側に向かう「とちのき通り」は、そのころからフランスをイメージして「マロニエ通り」と言われていた。その先には伝統ある語学学校、アテネフランセもある。そして1937年創建のアールデコ建築、山の上ホテルなど、まばらにではあるが「フランスの残り香」が感じられる。しかしこの町の「フランス」はエッフェル塔や凱旋門に代表される可視的でロマンティックなものだけではない。
 足元に目をやると、現在はどこもかしこもアスファルトで固められているが、学生運動華やかなりしころは石畳やレンガが敷き詰められていた。そして学生たちはそれをつるはしやスコップで崩して鎮圧しに来た機動隊たちに投石したという。これもパリ五月革命の際の学生たちが"Sous les pavés, la plage(敷石の下は砂浜だ)”のスローガンのもと、石畳を崩して投石したことによるという。学生運動という偏ったものではあるが、紋切り型の「フランス」ではなく、権力にこびない「フランス」がこんなとこにもあった。

サルトルと「アンガージュマン」
 権力にこびないあり方というと、粋な江戸っ子のあり方につながり、そして神田こそ江戸っ子の「本場」である。しかし将来を嘱望されて地方からやってきた学生たちは、反権力的な自由な在り方を主にフランスから学んだようだ。そしてその両巨頭がサルトルとレヴィ=ストロースだった。
 おそらく戦後日本の知識人に最も影響を与えた思想家といえば「実存主義」を提唱したサルトルだろう。「実存主義」の「実存(existere)」には“ex(外部)”という接頭辞がつく。西欧が生み出した実存主義的考えでは、例えばある人物について考える場合、「本当の自分」とやらがどうであれ「外部から客観的に見た自己という存在」に着目する。
 仮に私が徴兵され、侵略軍に組み込まれ、戦地で敵を殺害したとしよう。すると「本来の私」がどうであれ、「敵」からは「この人物は戦地で殺人を犯した人物」と判断される。そして私はその事実から逃れることはできず、責任を問われ続けるのだ。
 ただ、そこで自己の意思に基づかずやってしまったことに対する問責を受ける自分とは何か、が大切なのではなく、不条理な縛りの多い世の中でも自分が置かれた状況でベストと思える道を見つけ出し、それに忠実に歩み続けよ、という意味を込めた「アンガージュマン(engagement)」という言葉を彼は提唱している。そして学生たちが神田カルチェラタンにこもった時の行動原理の一つは明らかにサルトルである。総発行部数数百万に達するという彼の著書から、その影響力の大きさがうかがえよう。

原住民の存在に無頓着だったサルトル
 一方、アマゾンの原住民を研究してきたレヴィ=ストロースは「アンガージュマン」を呼びかける相手を西欧人およびその影響を受けた人々に限定していたサルトルを批判した。サルトルの「たとえ縛られてはいても世の中をよくしていくために社会にコミットすべし」というメッセージには、「世の中は資本家の支配という悪い状況から共産主義社会という良い状況に転じるべき」というマルクス主義的な歴史観がある。
 しかしレヴィ=ストロースの研究してきたブラジルの原住民たちは数千年間ほぼ同じ生活を保ってきた。歴史的な時間経過など、当人たちの関心事ではなかったろう。このような「非歴史観」をもった原住民の発想を実存主義は想定していない。しかし原住民も文明人もみなそれぞれの「構造」というメカニズムに従って生きている点では平等だと考えたレヴィ=ストロースは「野生の思考」(1962)で、サルトルのヨーロッパ中心主義を徹底批判する。
サルトルが世界と人間に向けているまなざしは「閉じられた社会」とこれまで呼ばれてきたものに固有の狭隘さを示している。
 神田の江戸っ子言葉でいうなら、「サルトルさんよ、おめえさん、井の中の蛙ってこと気づいてんのかい?」となる。そして皮肉たっぷりに続ける。
民族学者にとってサルトルの哲学は第一級の民族学的資料である。私たちの時代の神話がどのようなものかを知りたければ、これを研究することが不可欠であるだろう。
 「おめえさんのヨーロッパ中心の『アンガージュマン』だか『餡子饅頭』だか知らねえが、そりゃみんなおめえさんたちの間でだけ通じる楽屋ネタじゃねえか。まあ、おめえさんらのバカにする未開部族の神話と同じレベルだな。」という感じだろうか。
 この神田が「カルチェラタン」だった当時、最先端と思われていたサルトルの思想も、先住民の考え方も構造というメカニズムによって動いている点では上下の差はない。こうしたものの見方が「構造主義」として普及し、世界の知識人に共有されたのだ。

音韻論の二項対立から構造主義へ
 「構造主義」というとなにやら難しそうに聞こえるかもしれないが、実は世界中の事象を極めてシンプルに二分化する発想から始まる。私事だが二十代のころの私は日本語教育を学んでいた。神保町の日本語教育専門書店で見つけた書籍で「IPA(国際音声記号)」なるものの存在を知った。これは例えば上唇と下唇が合わさる「両唇音」のうち、止めておいた息を一気にだす「破裂音」を、pとbに分ける。あるいは「両唇音」でも舌の奥と上あごで調音する「軟口蓋音」をkとgに分ける。このように「二項対立」の数を増やしていくことで、日本語のみならずすべての言語の発音が表記できるということを知った。
 音韻をこのようにシステマティックに「構造化」した言語学の発想は、第二次世界大戦中にニューヨーク亡命中だったロシア人言語学者ヤコブソンからレヴィ=ストロースに伝えられた。そしてレヴィ=ストロースは言語学のみならずその二項対立システムをアメリカ先住民の婚姻関係に当てはめてみると、一見複雑に見える、高度に発達した先住民の婚姻メカニズムが氷解したのだ。ちなみにこの二項対立であらゆるものを表現できるという仮説は、「デジタル」の発想と同じである。
 こうして彼の「構造主義」は西欧中心主義に一石を投じるパラダイムシフトとして20世紀後半の言説を支配していった。そしてサルトルやレヴィ=ストロースだけでなく、この二人にも影響を与えたマルクスなどを含め、かんかんがくがくの議論が交わされたこの神田神保町から日本中を歩くことで、彼のいう「構造主義」が日本のどのようなところでみられるか確かめてみたい。
 本稿では特に彼の出世作でアマゾンの先住民の実態を明らかにした構造主義の金字塔「悲しき熱帯」と「野生の思考」をもとに、70年代から90年代にかけて何度かの訪日を通して書き下ろした日本人論「月の裏側」を読み解きながら北から南まで歩いてみたいと思う。

「悲しき熱帯」
 レヴィ=ストロースとかかわりの深い外国といえば、やはり1930年代を過ごしたブラジルだろう。ここで彼は先住民とともに数年間暮らし、彼らの中に息づく生のメカニズムを観察した。ただ観察するだけではなく、先住民に対して心からの愛情をもって接したことは、戦後まとめた「悲しき熱帯」のなかで最も詩的な次の一文に現れている。
「白人がもたらした数々の病気が、すでにナンビクワラ族の多くの者を殺してはいたが、それにもかかわらず、……誰ひとり彼らを服従させようとは考えなかった時代にナンビクワラたちを知った私としては、この胸を抉る記述を忘れてしまいたい。そして或る夜、懐中電灯の光で私がメモ帖に走り書きしたものから書き写した、次のような情景以外、私の記憶の中に留めておきたくない。」
 そして白人のもたらした西洋文明に浴することもなく、野生そのままの暮らしをしているナンビクワラ族の家族たちは、暗闇の中で互いにいたわりあう先住民たちを描写した。
「彼らみんなのうちに、限りない優しさ、深い無頓着、素朴で愛らしい、満たされた生き物の心があるのを、人々は感じ取る。そして、これら様々な感情を合わせてみるとき、人間の優しさの、最も感動的で最も真実な表現である何かを、人はそこに感じ取るのである。」
寒い国の「熱い社会」と熱い国の「冷たい社会
 アマゾンでの体験を通して、西欧の科学技術が南米の地で「野蛮人」たちに対して行っていたことこそ「野蛮な」言動に過ぎなかったことを、レヴィ=ストロースは目の当たりにした。とはいえその「文明人の仮面をかぶった野蛮人」がなぜ先住民を従えることができたのか。
 「文明人」たちにとって歴史というのは、過去から現在に向けて発展してきたと考える。レヴィ=ストロースは西洋やイスラム帝国、中華帝国、日本などに見られるこうした社会を「熱い社会」と呼んだ。一方「野生の先住民」の社会はそもそも歴史という観念をもたず、現在が過去よりも発展している(あるいは発展すべきもの)とは特に考えなかった。こうした社会を「冷たい社会」と呼んだ。
 ただ「冷たい社会」は停滞しているように見えても、グループ内には人間の新陳代謝があるという点では「熱い社会」と同じく変化を続けられるような社会構造になっている。そこに優劣はない。にもかかわらず寒い国の「熱い社会」は熱い国の「冷たい社会」を侮蔑し、支配してきた。
 しかし「熱い社会」の代表たる西欧は世界を支配しているように見えて、実は自分の築いてきた「歴史」の中から一歩も外に出られていないという事実を西洋人に突きつけたのが、レヴィ=ストロースの「悲しき熱帯」であり、「野生の思考」だったのだ。

「銀の滴降る降るまわりに」
 近代日本において最も「冷たい社会」と言えるのが北海道を中心としたアイヌ民族の社会だろう。そしてレヴィ=ストロースのようにフィールドワークを通してアイヌ研究を行った「和人」の中で最も有名なのが言語学者金田一京助だろう。
 登別の海岸沿いに「銀のしずく記念館」がある。北海道随一の温泉で知られる登別だが、ここは代々歌い継がれてきたアイヌの伝説「カムイユカㇻ」を文字化した、大正時代当時まだ19歳だったアイヌの少女、知里幸恵(ちりゆきえ)のふるさとでもある。そして「ネイティブ・アイヌ」としての彼女の素養と卓越した日本語能力に着眼した金田一は、彼女を東京の自宅に住まわせて「カムイユカㇻ」をローマ字表記させたうえで日本語訳し、「アイヌ神謡集」として発行した。
 「銀の滴降る降るまわりに,金の滴 降る降るまわりに」
 という幻想的な一文から始まるこの神謡集を、東京という慣れない気候で、しかも心臓の悪いのをおしてまとめあげた彼女は、脱稿したその日に亡くなり、わずか19年の儚い人生を終えた。まるで神が、カムイが、彼女に民族の魂を伝え去るためにこの世に送り込んだかのように。そういえばNY亡命中のレヴィ=ストロースに影響を与えたロシア人言語学者ヤコブソンたちは、言葉の根っこにあるのは詩歌であり、そこから日常言語が派生したと考えていた。口承文学としてのユカㇻあってのアイヌ語なのである。

「自由な天地」から「惨めなありさま」
 ところで金田一とレヴィ=ストロースの根本的な違いとして挙げられるのは、金田一はアイヌ民族を「滅びゆく民族」とみなし、他の日本人と同じように文明を享受させることが正義であり、アイヌ民族の幸せにつながると信じていたことにある。アイヌ語を学び、守るのもアイヌ民族をそれによって発展させるためというよりもマニアックな「コレクション」に近かったのだろう。アイヌ民族としての自分を見出してくれたこの恩師に対し、知里幸恵は「アイヌ神謡集」の序文でこのように著している。 
「その昔この広い北海道は,私たちの先祖の自由の天地でありました。天真爛漫な稚児の様に,美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は,真に自然の寵児,なんという幸福な人だちであったでしょう。(中略)その昔,幸福な私たちの先祖は,自分のこの郷土が末にこうした惨めなありさまに変ろうなどとは,露ほども想像し得なかったのでありましょう。
 つまりアイヌにとって「熱い社会」のように社会自体を発展させることよりも、「冷たい社会」の民らしく昔通りに暮らすのが真の幸せであり、明治維新以降半世紀にわたって身に着けた「にわか仕込み」の西洋文明などでは幸せになれないことを暗喩しているのだ。レヴィ=ストロースが書き下ろしたのが「悲しき熱帯」なら、知里幸恵は「かなしき亜寒帯」を絶唱し、書き留めたのだ。
 逆にいえば、レヴィ=ストロースもアマゾンの先住民たちに対する思いはあったとはいえ、当の本人たちからすると「当事者でないのに首を突っ込む物好きのお坊ちゃん」に過ぎなかったことも大いにあり得る。

「ナイ」と「ペッ」を区分する発想
 ところで彼女の記念館のある登別は、アイヌ語の「ヌプルペッ(色の濃い/濁った川)」に漢字を当てはめたものという。つまり「江別」「紋別」など「別」のつく北海道の地名の多くは「川」があると思って差し支えなさそうだ。ちなみに「札幌」も「サッポロペッ(乾いた大きな川=豊平川)」の略である。
 では川=「ペッ」かというとそこまで単純ではない。小樽は「オタオルナイ(砂浜の中の川)」の略称であり、「ナイ」という言葉も川を意味することが分かる。そういえば「稚内」「静内」なども「ナイ」がつき、いずれも川のほとりにある。アイヌ語では大きな川を「ペッ」、比較的小さな川や沢を「ナイ」という別の単語で表すのだ。
 狩猟採集生活や交易によって生計を立ててきたアイヌ民族にとって、川の大切さは和人以上だったから、あえて別の単語を割り当てたと考えられる。「野生の思考」にもこのようなくだりがある。
「用語の抽象性の差異は知的能力によるのではなく、個々の社会が世界に対して抱く関心の深さや細かさはそれぞれ違うということによるのである。」
 和人からは「野蛮人」だと思われていたアイヌ人だが、川を例に出すだけでなくあらゆる生態系や地質学に関する造詣が広く深いことを知り驚いたのは、むしろ近代の和人側だった。レヴィ=ストロースに言わせれば「野蛮人」も「文明人」と同じく知的好奇心を求め、世界観を構成しているということなのだ。とはいえそれはアカデミズムでのことであり、政府の政策に反映されることはほぼなかった。
 登別だけでなく、二風谷、白老、定山渓温泉、阿寒湖、静内、札幌など、北海道各地のアイヌ関連施設やコタン(村)を回って思った。そこまで高度な知的世界を備えているなら、彼らが一つの民族として独立国を打ち立ててもよさそうなものだが、なぜ国家形成につながらなかったのだろう。シャクシャインやコシャマインなどによる反乱はあっても、その目的は国家形成とは異なる。
 おそらくアイヌは国を持てなかったのではなく、持とうとしなかったのではなかろうか。この世はカムイのものであるからあえてそこから土地を独立させるのは不遜だとおもったのかもしれない。さらには国家形成に必要な文字を習得して、歴史を書き留めるという発想もなかった。レヴィ=ストロースいうところの「冷たい社会」の発展すべき歴史観を持とうとしなかったからなのだろう。
 もっといえば「国を持たない」という道を選択したのだ。そしてそれはアイヌだけでなく、現在先住民主体の独立国家が全くないことからも普遍的であることがわかる。

秋田小野小町伝説
 初秋の秋田を訪れた。5日間かけて県内を旅友たちと車で回った時の写真を見ると、つくづくレヴィ=ストロースの言っていたことが思い起こされる。
 山形県側から奥羽山脈と出羽山脈に挟まれた横手盆地の湯沢市に入った。秋田第一の大河、雄物川沿いに進み、無人駅近くの宿に泊まった。宿付近の焼肉屋に入ると、焼肉のにおいには似つかわしくない百人一首の暖簾が目についた。斜め後ろを向いた姫君のイラストの横には「花の色は 移りにけりな いたづらに 我が身世にふる ながめせしまに」という小野小町の歌が書かれていた。
 この町はいわゆる「世界三大美女」の一人にして「古今和歌集」六歌仙の紅一点、小野小町の出身地ともされているのだ。中央で活躍した後、三十代でこの故郷に戻り、九十代までこの地に住みつつ世を去ったという「小野小町伝説」がこの町の「表の顔」だとするなら、「裏の顔」が気になる。

鹿島様とブリコラージュ
 翌日、「鹿島様」に行くことにした。高さ数メートルもある魔除け用の案山子、といえばそれまでのことだが、その形相が仁王のようにぎょろりとした目でにらみを利かせ、巨大な男根を持ちながらも乳首をついているという両性具有のようでもある、何とも言えぬ外観だ。一言でいえば「異形」である。小野小町が表の顔ならこれ以上の裏の顔はないだろう。
 名のある芸術家が作ったわけではなく、農村地帯に数か所ばかり、地元のお百姓さんたちの作業でできあがるものだが、規格があるわけでもなく、ありあわせの木や藁で作ってきた。カーナビでは探し当てられないので宿のおやじさんに聞いてみたところ、偶然それを研究している方だった。そこでご好意に甘え、あぜ道沿いの鹿島様を数か所案内していただいた。
 「野生の思考」では先住民の得意とする、とりあえずその場にあるものを組み合わせて用を足す「日曜大工的」手仕事を「ブリコラージュ」と呼んでいるが、おそらく設計図なしで高さ数メートルの巨人を作ってしまう地元のお百姓さんたちは、そんな「しゃれた」用語はご存じなくとも「ブリコラージュ」を実践する「ブリコルール」なのだろう。レヴィ=ストロースは「野生の思考」でこう言っている。
「ブリコラージュでは『できあがりはつねに、手段の集合の構造と計画の構造の妥協として成り立つ』ゆえに、『できあがったとき、計画は当初の意図とは不可避的にずれるのである。』(中略)計画をそのまま達成することはけっしてないが、ブリコルールは常に自分自身のなにがしかを作品の中にのこすのである。」
 「鹿島様」はありあわせのものを組み合わせて作り上げてしまうため、プラモデルを組み立てるようなわけにはいかない。当然出来上がったものに「ずれ」が生じる。既製品のようにきちんと整ってはいないので、うまいか下手かでいえば下手かもしれないが、不格好なところになんともいえぬ味が、暖かさが、そして迫力がある。

縄文文化と弥生文化の融合
 この鹿島様を形づくる藁は稲作文化の賜物である。稲作が出羽の地に根付いたのは近世だろうが、元をたどれば弥生文化だ。畿内では弥生文化の後に古墳時代を経て百済や唐の華麗な仏教文化が花咲いたが、鹿島様には「先進地域」大陸の影響は全く見られず、むしろそれらが伝来するはるか以前の縄文的な何かを強く感じた。「月の裏側」ではレヴィ=ストロースは特に縄文文化を高く評価してこう言っている。
「私がしばしば自問することは、弥生文化によってもたらされた大変動にもかかわらず、『縄文精神』と呼べるかもしれないものが、現代の日本にも存続していないかだろうかということです。日本文化は両極端のあいだをゆれ動く、驚くべき適応性をもっていることがわかります。(中略)日本文化は反対のものを隣り合わせにすることさえ好むのです。」
 鹿島様というのは、稲作をもたらした弥生文化の「しずく」ともいえる藁を用いて、生命力ほとばしる「縄文精神」を表現したものだとするならば、この「縄文と弥生の融合」こそレヴィ=ストロースの言っていたことに相違ない。そして秋田のみならず我々は土着の縄文的ブリコラージュと、舶来の弥生的計画設計の間を常に揺れ動いてきたのかもしれない。 

雪の結晶とタンポポの綿帽子
 湯沢から北に向かうと、近年は焼きそばというB級グルメで有名になった横手市である。奥羽山脈と出羽山脈に挟まれた横手盆地は極めて雪深い。この町で有名なのが二月中旬、旧暦の小正月前後に行われる横手かまくらである。市内にはかまくら館という、一年中かまくらを体験できる屋内施設があるが、戦前の横手を訪れたドイツ人建築家、ブルーノ・タウトが感嘆したほどの幻想的な雰囲気はさすがに室内では期待できない。
 そもそもかまくらの語源は「神倉」であろう。かまくらの内部で最も大切なのは水神様を祭った場所であることからもそれは推測できる。そのかまくら館で雪の結晶のパネルを見た。まさに「雪印」のブランドマークさながらの結晶である。後に同じ雪国の石川県加賀市にて中谷宇吉郎・雪の科学館なる施設を訪問した際、そこで六角形の雪の結晶を数多くのパネルで見て、顕微鏡越しに観察したときは、その完璧な「構造」の美しさに圧倒された。
 いずれも六角形であるが、それぞれ異なる。自然の造形物でありながら、整然としたメカニズム、あるいは小宇宙といってもよいような構造をそこに見出した。見ているうちに四角形と円で全宇宙を解説した曼荼羅を思い出した。いや、曼荼羅こそこうした自然の「構造」からヒントを得たのだろう。
 レヴィ=ストロースが「構造」の存在に目覚めたのは、1940年5月にルクセンブルグ国境に動員されたときだった。従軍中、草原で野生のタンポポの綿帽子の幾何学的な規則正しさに気づいた。つまり自然の法則から構造主義のインスピレーションを得たのだ。レヴィ=ストロースにとってのタンポポの綿帽子が、私にとっての雪の結晶だったのだろう。
 そして彼が構造主義の「三つの源泉」としてあげているのが①マルクス主義、②地質学、③精神分析である。これらはみな①資本家の陰に追いやられた労働者、②地表に覆われて見えにくい地層、そして③心の奥底に真理を求めることなど、みな「裏」の存在である。これらに熱狂した彼だったからこそ、従軍中に見つけただれも見向きもしないタンポポの綿帽子の構造、そしてその自然界の秩序の美しさにハッとしたのかもしれない。

世界三景?
 雄物川沿いに川を下りついたところが県庁所在地の秋田市である。夏の秋田というと東北三大夏祭りの一つの竿灯が知られているが、市内のねぶり流し館では年中体験できるようになっているので挑戦してみた。なかなかバランスが必要とされる竿灯に興じつつ、展示資料を見学した。数十もの提灯をさげた竿灯は稲穂を表しているという。つまりこれも稲作=弥生文明のひとしずくといえる。そして古代において朝廷の出先機関として造営された城柵の秋田城もあり、そこで渤海使を受け入れていたことから大陸ともつながっていたとされる。つまり秋田は意外にも「中央志向」が強いように見える。
 ところで秋田というと小野小町伝説から始まる「秋田小町」の里として知られるが、大学時代にこの町を放浪していた時、若い人がいそうな秋田駅前で日中小一時間ほど座って絶世の美人を探しことがあったが、全く見当たらなかった。その時は、若者はみな都会に出てしまったためだと思っていた。
 しかしこのたび小京都として知られる角館を訪れた日は、偶然「角館のおまつり」の日と重なったため、のちに無形文化財となった「山」を曳く地元の若い人を見ることになったが、それまで見たこともないほどの「美女率」だった。旅友が「同じ親から生まれたのであれば男も美男なはず」というので全く興味のなかった「美男子探し」をしてみたのだが、彼の言う通りで、やはり男性も美形ぞろいであった。
 しかしどうやら秋田美人という概念は近代になって生まれたものらしい。それが証拠に県内最南端の象潟を訪れた芭蕉は地元美人に言及せず、中国の美女、西施を思いつつ一句呼んでいる。「象潟や 雨に西施が ねぶの花」
 県内の海岸の漂流ごみをみると、朝鮮半島や中国、そしてロシア語のものまで流れ着いていたことを思い出した。渤海だけでなく、各地から対馬海流などにのってこの地に流れてきた人々が混血して秋田美人が生まれたとも聞いている。近代になって西洋の美女を見た日本人の目が、色白な混血美人を美の基準に変えたのかもしれない。美の基準は先進国に合わせがちだからだ。
 そういえば冬の秋田といえばなまはげだが、なまはげの形相もロシアあたりから流れ着いた人々を鬼のように感じた人々が作り上げたものとか、古代中国の王が連れてきた従者の様子を再現したとものだか言われ、「異人」または「混血」の可能性が考えられている。そんなことを考えながら次の目的地、男鹿半島に向かった。

世界三景?から見た八郎潟と人間の自然への甘え
 男鹿半島の付け根の寒風山。標高は355mと低く、車で上がれる。頂上の展望台からは、北に世界最大級のブナの原生林で知られる白神山地、東には出羽山脈と東北の背骨、奥羽山脈が走る。そして南には日本海の向こうに「出羽富士」鳥海山の雄姿が拝め、西側はなまはげの里だ。展望台近くで「世界三景」という看板を見た。なるほど、たしかに絶景の大パノラマである。「世界三大美女」の次は「世界三景」。なかなか視点がグローバルだ。
 東側の眼下に八郎潟干拓地が広がる。ここは戦前は琵琶湖に次ぐ面積を有する潟湖だった。しかし戦後の食糧難を解決するために干拓を行った。1957年に始まったこの戦後最大の国家プロジェクトだが、高度経済成長を経てコメ余りとなると、1970年には政府の減反政策によってプロジェクトは暗礁に乗り上げた。寒風山から見るといかにも埋め立てた場所がどこかわかるような露骨な干拓事業だったことがわかる。
 1960年代後半の一連の公害裁判によって環境意識が多少高まったこともあるかもしれないが、その後日本各地を訪れたレヴィ=ストロースはこうした日本人の自然観について次のように述べている。
「日本人が’(中略)ある時は自然を、ある時は人間を優先し、人間のために必要なら自然を犠牲にする権利を自らに与えるのも、おそらく自然と人間との間に截然(せつぜん)とした区別が存在しないことによって説明されるのかもしれません。自然と人間は、気脈を通じた仲間同士なのですから。」
 面白い見方だ。日本人にとって自然と人間は身内のようなものだから、身内に対する甘えから「ちょっとぐらいいいだろ」とばかりに自然を破壊する、というのである。しかし彼はこのような環境破壊を手放しで観察しているだけではなく、次のようにはっきりと否定している。
「四国でも、九州でも、これほどの素晴らしい印象のかたわらで、日本が自然を取り扱ってる粗暴さは、私には辛いものに思われました。」
 
なまはげとサンタクロース
 秋田は雪が深いが、見方を変えれば水資源が豊かなため、稲作をはじめとする農業が盛んだといえよう。究極の「マイナス」は「プラス」に通じるものだ。ところで雪のためもあるが、冬の秋田は日没が早い。そして日照時間が最も短いのは冬至である。当時を一週間ほど過ぎて若干ながらも日が長くなったかと思われる大晦日になまはげがやってくる。そして「悪い子」を戒めたあと、家族からもてなしを受けて帰る。
 しかしこれはなにも秋田だけのことではなく、冬至直後に各家庭にやってくるもののうち世界一有名なのがサンタクロースこと聖ニコラスだろう。キリスト教普及以前の古代ヨーロッパでは、冬至のころは聖ニコラスの従者だが鞭をもって悪い子をたたこうとするold man whipperなる妖怪が現れ、子どもを脅しつつプレゼントもくれたという。
 そしてその日をすぎれば少しずつ日が長くなる。「日が長くなる」のは聖書にある「はじめに光ありき」に通ずる。キリスト教会はこの土着の風習をうまく教えに取り込んだ。その日がまさにクリスマスだ。キリストの誕生日が冬至直後なのはこのためという。ちなみにこのold man whipperなる妖怪の出る行事は今なおレヴィ=ストロースの育ったフランスに出没するという。
 男鹿半島とフランスという全く縁もゆかりもなさそうなところでそっくりの行事がほぼ同じころに行われるのは、レヴィ=ストロースに言わせれば単なる偶然ではなく、人類は同じ「構造」を持っているということの証しだろう。 
 このなまはげを年中体験できる「なまはげ館」でその雰囲気を味わってから、何十体ものなまはげを資料館で見た。湯沢市で見た数体の鹿島様も、ここのなまはげも異形さが特徴である。何かに似ていると思ったら、東日本一帯に広がる土偶がモデルなのではなかろうかと思い始めた。少なくともこれを作り出した人々の中には無意識のうちに「縄文文化」が息づいていたに違いない、などと思いながら、白神山地南麓を東に向かった。目指すは「縄文」である。
 
 大湯環状列石
 秋田県で縄文文化といえば、世界遺産「北海道・北東北の縄文遺跡群」の構成資産、大湯環状列石が知られる。十和田湖の南に位置するこの盆地で地元の大湯温泉に浸かった翌朝、秋雨の中に濡れながら環状列石の公園を歩いてみた。慰霊の場であるとか祭祀の場であるとか、縦長の岩を立てたりするのは日時計だったとか諸説あるが、確かなのは縄文時代にここに暮らす人々がいたことだ。
 青森市の三内丸山遺跡ほどではないが、資料館には発掘物などが展示されている。縄文土器について「月の裏側」の中でレヴィ=ストロースはこう述べている。
その様式は、縄文中期の「火焔様式」とでも呼ぶべき土器において、見る者の心をとらえずにおかない表現に到達しています。(中略)「構成がしばしば非対称」とか「あたりかまわぬフォルム」とか「ぎざぎざ、突起、瘤、うずまき、植物的な曲線がからみ合う造形装飾」といった表現をきくと、五、六千年前に「アール・ヌーヴォー」が生まれていたような気持ちになります(後略)。」
 ここで19世紀末にフランスで流行した「アール・ヌーボー」と対比するのはいかにもフランス育ちのレヴィ=ストロースだが、「火焔土器」「土偶」に代表される縄文文化は形を変え、上流文化、支配層の文化だった大陸系文化と衝突しながら、「異形」の系譜を今にいたるまで保ち続けていることに気づいた。
 
「先住民族」とは?
 遺跡内に昭和十二年に立てられた「先住民中通遺跡」の記念碑を見つけた。その「先住民族」という表現が気になった。戦前はこれらを築いた縄文人を「我々」と異なる民族と見ていた。秋田県民も「万世一系」の天皇をいただく「大和民族」であり、先住民族=蝦夷などでは断じてない、とでもいわんばかりである。
 が、そのような意識の表れが、秋田=大和の最前線≠蝦夷・縄文人という意識につながったのではないか。そしてそれは秋田県だけでなく東北地方、ひいては日本中が東洋において普遍的な稲作文化、漢字文化、儒教文化、仏教文化といった「大陸文化」を共有する「文明人」であり、奥羽の「先住民族」とは格が違う、と思いたがっていたことの現れではなかろうか。
 しかし「縄文びいき」のレヴィ=ストロースは日本中を歩いた結果、こう述べている。
「私は「野生的」なものが私たちすべての中に存在し続けているということを、示したいと思ったのです。そして野生的なものがつねに私たちの中にある以上、それが私たちの外にあるからといって、それを蔑視すべきではないだろうと思うのです。(中略)私が人類学者として賞賛してきたのは、日本がその最も近代的な表現においても、最も遠い過去との連帯を内に秘めていることです。それにひきかえ私達と言えば、私たちに「根っこ」があることはよく知っていますが、それに立ち戻るのがひどく難しいのです。 」
 彼が秋田を秋田を歩いていたら、環状列石やなまはげや鹿島様をもっと大切にし、その縄文精神に立ち戻れ、と訴えかけていたに違いないのだ。そしてなによりも、キリスト教文化が入ってくると、その勢力の強さにヨーロッパの先住民文化は隅に追いやられてしまったため、それに立ち戻ることは今更困難だというこの人類学者の苦悩も感じられるのだ。

二つの民族的アイデンティティ
 しかし民族的アイデンティティを何に求めるのかを何に求めるのかというのはそれほど単純なことではない。この土地の人々、いや、日本列島の我々が自分の血の中を流れる一つの民族を選ぶということは、その他の民族を無視することになるからだ。つまりアイヌ民族だと思っていても、血の半分は和人だとすると、その人は和人である自分を見て見ぬふりをすることになる。そもそも千年前までさかのぼった「純粋な」アイヌ民族、「純粋な」蝦夷、そして「純粋な」大和民族など、空想の上でしか存在しえない。むしろ「鹿島様」のように縄文と弥生のハイブリッドであることを主張するほうが健全だろう。
 ちなみにレヴィ=ストロースはフランスのユダヤ人であるが、人類学者として全人類を客観的に見つめるためか、自分の所属するフランス、ユダヤ、などというグループから距離を置こうとしたのは極めて示唆的である。

日本で最も印象深いのははたらく人間
 レヴィ=ストロースにとって日本の魅力は自然の美しさよりも人間そのものという。
「日本についてはといえば、第一印象、最も強い印象は人間、人々です。これはかなり意味深長です、なぜならアメリカは、人間においては乏しく、けれど自然の富に溢れた大陸ですが、日本は自然の富は乏しく、反対に人間性において非常に豊かです。」
 アメリカ大陸と比べての話とはいえ、彼が日本人の何にひかれたのか。
「人々がつねに役に立とうとしている感じを与える感じを与える、その人たちの社会的地位がどれほど慎ましいものであっても、社会全体が必要としている役割を満たそうとする、それでいてまったく寛いだ感じでそれを行うという人間性なのです。」
 つまり、自然体で世の中の役に立つために働こうとする日本人にひかれたのだ。それは「昭和」の日本人の話で、「令和」を生きている私からするとなにやら面映ゆいが、彼は宗教や文学などはもちろんのこと、津々浦々まで回って市井の人、特に職人に出会ってきた。中でも飛騨高山を中心とした岐阜県の印象が強かったようなので、彼の愛した「日本人像」を求めて歩いてみた。

 美濃焼
 travail(仕事)というフランス語があるが、この語源はキリスト教的に神が人間に「懲罰として与えた労働」を意味するという。仕事はいやいやするのが相場なのだろうか。ただ、それだと「あの職人はいい仕事をした」などと職人技をほめるときにはこの単語は使えないのだろうか。
 岐阜県は実に伝統工芸にあふれているが、焼物好きの私は美濃焼のふるさと、多治見市を訪れた。深緑色と薄汚れた白のコントラストが絶妙な織部、あばた面でありながら薄桃色の表面の志野、黒光りするツヤが美しい瀬戸黒、黄土色の地にほんわりと緑色の花が咲く黄瀬戸など、どれ一つとして有田焼のような左右対称の整った形のものはない。これらの陶器がずらりと並ぶ美濃焼ミュージアムを見学していると、「月の裏側」の一節を思い起こす。
「ごつごつした素材や不規則な形に対する嗜好が生まれ、ある茶の宗匠が「不完全の芸術」という一語で名付けたものが一派をなすことになった。この点において日本人は素朴主義(プリミティズム)の真の発明者なのである。 」
 この美濃焼の中にも縄文土器のプリミティズム(原始性)は生きている。活かされていることを感じる。
 民藝は材料の特性を活かす。材料の特質をよく読み、そのベクトルに従って加工する。例えば土の特性を読みこみ、窯のどこにおいてどれくらい焼き上げるかを計算するのは人間であるが、実際に焼き上げるのは人間ではなくて火であるので、「人事を尽くして天命を待つ」しかない。レヴィ=ストロースは「自然を人間化する日本人」という言葉を使っている。原文はわからないが、要するに日本人は自然をなだめたりすかしたりすることに長けているということだろう。
 多治見地区の氏神は一見何の変哲のもない、ごく普通の神社であるが、その名は新羅(しんら)神社である。いかにも渡来系の神社で、八幡神のほかに出雲系のスサノオやエビス様まで祭られている。おそらく彼らが奈良時代より前にここの土を見つけて焼物にしたのだろう。渡来人=弥生系でありながら、その子孫たちが千年後に焼いてみると、まるで洗練された縄文土器のようなものができてしまったのが面白い。
 ただ今見る美濃焼の直接の原型は信長が山向こうの尾張の瀬戸から陶工たちを移住させてからのことという。先祖は渡来系でも縄文のDNAは千年後も残っていたのだろうか。

白川郷
 合掌造りで知られる飛騨の白川郷。私は日本の伝統建築を見るときにまず目がいくのが梁である。高さ十数メートル、つまり奈良や鎌倉の「大仏サイズ」のこれらの合掌造りを支える梁は、実にまちまちである。まっすぐに伸びる黒光りした柱もあれば、規格外の波打つ木材でも実にうまく組み合わせ、当時の耐震基準を満たすしなやかな建築を形作っているのには驚かされる。かやぶき屋根のふき替えは村人たちの協力でできるというが、単なる素人仕事の「ブリコラージュ」ではない。
 「大仏サイズ」といえば、「飛騨の匠」ということばが「いい仕事をする職人集団」として認知されてきたのも、奈良時代に彼らの先祖が平城京を建設するために徴用されたことに由来するらしい。山国の飛騨からは税として租庸調(米・特産物・布など)が取れない。代わりに雑徭(ぞうよう)として労働力を徴用して男子を平城京建設に駆り立てたのだ。つまり飛騨の匠たちは奈良の大仏や興福寺の五重塔などを現場で作っていた人々の子孫なのだ。それを思うと合掌造りのような巨大な民家が、荻町集落だけでも百棟残されるほどに建てられたのも納得がいく。
 日本海に流れる庄川の橋を渡ると、大小さまざまな妻入り屋根がずらりと連なっているのが見える。まさに「構造主義」である。ここまで来て、レヴィ=ストロースのいう「構造」とはどんなものなのか改めて気になってくるが、「構造・神話・労働」の中で彼はこう述べている。
「構造とは、変換を行っても不変の属性を示す諸要素と、その諸要素間の関係の総体である。」
 訳はややこなれていないが、これを人体に当てはめると、顔にはみな大体同じ位置に目や鼻や口や耳があり、「文明人」も「野蛮人」も目でモノを見、鼻で匂いを嗅ぎ、口で呼吸をする。その位置も多少のずれはあっても原則同じだ。つまり「文明人」も「野蛮人」も同じ人間であり、そこに差はないとするのが構造主義の原則なのだ。
 それはここでいうと、雪が滑りやすいように考案された鋭角の大きな茅葺屋根をもち、内部には一階に真宗の大きな仏壇を中心とした板の間に囲炉裏があり、二階には養蚕のための部屋として使われ、三階がある場合は屋根裏部屋になる、という点では同じ構造を持っている、というようなものだ。そして彼がむしろ感銘を受けたのは、山を越えたところにある同じ合掌造り集落の五箇山だったのかもしれない。

高山でみた日本人の「しごと観」
 山国の飛騨では農業が思うようにいかないため、周りにあるあらゆる自然物にはたらきかけて生きてきた。飛騨は木なら周りにたくさん生えているため、それに感謝しつつ「使わせていただいている」のだ。飛騨の匠たちは木々を見るだけで「どのように使って欲しがっているか」わかるに違いない。そして彼らは木々が、自らの命を人間に差し出す代わりに、人間の暮らしを豊かに、便利にするためにはどうしたらいいか、そのメッセージを、木目や節や樹皮などから読み取ることができたのだろう。そうしてできたものが一位一刀彫などの木彫りであり、春慶塗などの漆器なのだ。
 重伝建指定の街並みで知られる高山だが、春と秋の高山祭には特に賑わいを見せる。ここでは山車のことを「屋台」と呼ぶが、桜山八幡宮の屋台会館では年中「飛騨の匠」の技と力の集大成としての屋台群が圧巻である。日本人と木々との近しい関係を知ったレヴィ=ストロースはこう述べる。
「私は、「はたらく」ということを日本人がどのように考えているかについて、貴重な教示を得ました。それは西洋式の、生命のない物質への人間の働きかけではなく、人間と自然のあいだにある親密な関係の具体化だということです。」
 つまり、日本人は仕事を「天罰」ではなく、自然とのコミュニケーションとみているというのだ。

郡上踊り
 美濃北部、長良川支流の吉田川沿いに広がる城下町、郡上八幡。重伝建の町並みのあちこちに清水がわく「水の城下町」であり、宗祇(そうぎ)が滞在していたことから宗祇水と呼ばれる水汲み場もある。ここで夏に32夜も毎晩行われる郡上踊りは、東京五輪2020の閉会式でも演じられた。そして無形文化遺産候補の「風流(ふりゅう)踊り」の一つでもある。
 夏季でなくとも郡上八幡博覧館で年中実演を見ることができるが、哀愁を帯びたその音階や旋律は聴いていて切ないほど心にしみる。レヴィ=ストロースは、自分のルーツはユダヤであるとはいえ、イスラエルの音楽よりも日本のものによりひかれるという。
「日本の音階は、人の心の動きを巧みに表現できるようになっています。ある時は訴えるような、ある時は甘美に物悲しい旋律は、それを聴く日本の伝統にまったくなじみのない者の心にも、平安時代の文学の底流の一つをなしている『もののあはれ』の感覚を呼び起こします。文学の『もののあはれ』が音楽でも表現されているのです。」
 「耳で感じるもののあはれ」こそが日本の伝統音楽であり、その一例が美濃の郡上踊りであり、越中八尾(やつお)のおわら風の盆なのだろう。
 美濃、飛騨を問わず、岐阜のあらゆるところで伝統を守りつづけることで世の中のために役立とうとする人々を見た。そしてこれこそレヴィ=ストロースの愛した日本人の姿である。フランスと日本の「伝統と発展」の在り方を比較して彼は言う。
「おそらくすべての国のなかで日本だけが、過去への忠実と、科学と技術がもたらした変革のはざまで、これまである種の均衡を見出すのに成功してきました。このことは多分何よりも、日本が近代に入ったのは『復古』によってであり、例えばフランスのように「革命」によってではなかったという事実に負っているのでしょう。そのため伝統的諸価値は破壊を免れたのです。」
 そして次は山国から、日本海の中の離島、隠岐島を訪れてみよう。

日本海の味覚
 1977年11月15日から20日までの 6 日間、隠岐に滞在したレヴィ=ストロースは、刺身は もちろん、生ウニ、さざえ、あわび、もずく、とろろ芋など、日本海の味覚に舌鼓を打った。彼の和食好きは有名で、初めて日本を訪れてからも毎日のようにご飯を炊いて食べていたという。そんな彼の「和食観」はいたって平凡である。
「さまざまな味をそれぞれまったくの単味で純粋な状態に置き、食べる者に自分自身で、望む味の組み合わせを作らせるというこのやり方、それは私にとっては極めて魅力あるものに思われます。」
 つまり素材の持ち味を生かし、あっさり、さっぱりしたしたものに自分の好きな調味料でいただく、ということである。ただ「自分自身で、望む味の組み合わせをを作らせる」というと、刺身につける醤油やワサビの量も食べる人のお好みであることから始まり、西日本人がすき焼きを作るときには東日本人のように割りしたは使わず、鍋の上で砂糖やしょうゆ、みりんなどを加えつつ味見しながら、最後に好みによって溶き卵につけていただく。
 また隠岐の対岸の出雲に生まれ育った私は、割子そばといって三段の丸くて平たい容器にそばを入れ、ネギや紅葉おろし、鰹節やノリなどを好みに合わせていただいてきた。麺類といえば讃岐うどんほど好みに合わせてトッピングや味付けを変えるものもない。博多のとんこつラーメンにしても、さらにお好み焼きにしてもそうだ。
 ただ一点いうなら、彼が食した和食のほとんどが食堂か旅館のものではなかったかということだ。家庭料理だと「卵かけご飯」や「お茶漬け」のように混ぜ合わせて食べるものや、煮魚や焼き魚のように、自分で味付けしないものも少なくない。とはいえ彼が少なくとも隠岐を訪れたときには日本海の荒波に鍛えられた魚を堪能していたこと、そしてそれらを隠岐の人々は日々食べていたことは事実だろう。

あえて魚を逃がす漁法
 隠岐には17世紀初期から続く大敷網(おおしきあみ)漁という漁法があり、今も細々と続いている。これは魚を一網打尽にするのではなく、入口も大きいが抜け穴もあるため、魚を取りつくすことのない定置網の原型である。全国的にはその後抜け穴を作らなくすることで「効率」をあげたが、そうすると濫獲によりその後の漁獲量が減る。そのこともあり、あえて江戸時代さながらの大敷網漁を続けているのだ。
 レヴィ=ストロースが次のように述べているのは、隠岐をはじめとする各地の人々のこのような態度を言っているのだろう。
「これらの社会では迷信と侮ってはならない賢明な慣習が、人間の他の生物種の消費を制限し、他の種に対する道義的尊重を課すと同時に、種の保存に関する極めて厳しい規則が設けられている」
 山や川は単に食べるための対象ではない。他の先進国や日本でも都会ではこれを「食物連鎖」とか「サステイナブル」などという血の通わないことばで済ますのだろうが、日本の農漁村では、そしていわゆる「未開社会」では「生命はみなつながっている」ということは常識なのである。近代西欧の生んだ「モダニズム」とやらは「野生」を従えようとするが、ポストモダニズムは人間と「野生」の間に線引きをせず、強制しようとする。そしてそのポストモダニズムを支える思想が構造主義なのだ。

国賀海岸摩天崖ー天地の「書作品」
 訪日客にとって島根県で、いや、山陰で最もおすすめの場所はどこかと聞かれれば、私なら出雲大社とは答えない。あるいは世界遺産の石見銀山とも答えない。高さ二百数十メートルの断崖絶壁に馬が草をはむ、西ノ島の国賀海岸摩天楼と答えるだろう。ここを旅友と訪れたとき、口々に「アイルランドのようだ」「いや、スコットランドのようだ」と口々にその「異国さながら」の海岸を讃嘆した。よく考えるとここははるか昔はユーラシア大陸の一部だった。
 さらに同じく西ノ島の焼火(たくひ)神社からは、海の中に島前(どうぜん)三島が望めるが、それらもかつては火山噴火によるカルデラだったことがはっきりと見て取れる。まさに世界ジオパークの名に愧じない絶景である。それに比べると出雲大社というのは国内のみで通用するブランドであり、奈良や京都の神社仏閣とどう違うのか、というのがごく普通の訪日客の見方だろう。
 ここを11月に訪れたレヴィ=ストロースは「日本の景色の美しさについてはフランスで知っていたが、実際にこれほど見事な 景観に接するのは生まれて初めて」と大絶賛した。幼い頃から手元にあった浮世絵以上に、隠岐は美しく、特に海岸線の造形美に感銘を受けたようだ。そういえば「構造・神話・労働」には「日本では風景もカリグラフィー(書道)だ」ともある。
 書道といえば、楷書、行書、草書のうち、多くの西洋人が意味は分からずとも草書を好む傾向にあるようだ。リアス式海岸の隠岐諸島を「書道」になぞらえた彼の視点は極めてユニークである。そして隠岐だけでなく、三陸海岸、若狭湾、対馬、五島列島など、天地が筆を執ってしたためた「書作品」は点在している。島の向こうの出雲に生まれ育ちながら、この素晴らしい島に49歳まで訪れなかったのが実に悔やまれた。
 
「交換される」女性
 隠岐は後鳥羽上皇や後醍醐天皇が流された島である。そして島民はそのことを誇りに思っている。これとは別に、レヴィ=ストロースが京都の貴族と隠岐の民の両方に同じような視線を投げかけている興味深いくだりがある。まず、「源氏物語」を読んだ時の彼の視点は文学として見るよりも婚姻の「構造解析」として見ている。
「母方親族の役割、交叉イトコ同士の結婚をめぐる心理など、そこにはこの上なく貴重な、あらゆる種類の情報があります。」
 つまり彼は光源氏と出逢う女性たちの間の「インセスト・タブー(近親相姦)」の心理を読み解こうとしている。一方、隠岐の人々に関しては
「隠岐の島の中之島では、北と南の二つの古い村が、一般民は村外婚しか行わず、上層階級の人々は、女性を相手の村に嫁がせる村外婚を行っていました。」
という記録を残している。
 レヴィ=ストロースにかかれば、京都の皇室も隠岐の庶民もそれぞれ独自の「婚姻関係」という構造の中で生きている人々、という点において貴賤の差などない。そしてこの「婚姻」という形態に非常にこだわったのがレヴィ=ストロースである。「構造人類学」という論文の中で婚姻の本質について彼はこう論じる。
「男は、別の男からその娘またはその姉妹を譲り受けるという形式でしか、女を手に入れることができない。血統を存続させたいという欲望のことを言っているのではない。そうではなく、ほとんどの親族システムにおいて、ある世代において果たされる女を譲渡した男と女を受け取った男のあいだに生じた最初の不均衡は、続く世代において果たされる『反対給付』によってしか均衡を回復されないという事実を言っているのである。」
 彼は婚姻の本質は、集落と集落の間の「女性の交換」であると考えている。そのためフェミニストからは非難の嵐であるが、「婚姻とはこうあるべき/あるべきではない」というフェミニストと、「婚姻の本質はこうである」というレヴィ=ストロースでは永遠に平行線をたどりそうだ。

変わることで強くなる
 また上記のくだりで注目したいのは、「『反対給付』によってしか均衡を回復されない」という部分である。これは例えば隠岐のA集落から別のB集落に女性を嫁がせたとすると、B集落はA集落に対して負い目を感じる。それは後々B集落からもA集落に女性を嫁がせる。こうした「恩送り」の一環に婚姻があるというのだ。
 変化を求めてやまない世の中に応じ、自らの集団も変え続ける我々人間がやり取りするのは、女性に加えて「財貨サービス」「メッセージ」の三つに集約されるとレヴィ=ストロースは喝破する。女性を相手の集団に与えれば、相手の集団はお返しをしなければならなくなる。いわば集団的に行われる「結納」だ。これが互いに変化を続ける条件だ。
 つまりB集落がA集落から女性を受け入れても、B集落からA集落に嫁ぐ娘がいない場合は、例えばA集落に魚やコメを送るとか、集落の行事に協力するなどといった形で返さなければならないのだ。
 そもそも親族はなぜ他のグループから女性を迎えるのか。それは集落が停滞するとマンネリがおこるが、集団として生き残るためには変化し続けなければいけないからだという。言い換えればインセストタブーが全世界で普遍的なのは、集落、または一族の「自己完結」によるマンネリや停滞を防ぐためなのだろう。この世は決して停滞しない。変化していかないと生存できない。親族が生存していくためにも「外からの血」を入れて混血化し、強くなる必要があることを無意識のうちに知っていたのだろう。
 私が「源氏物語」で違和感をいだくのは、光源氏の「初恋」の相手が実の母親と瓜二つで、母の死後、実の父親の期先となった藤壺だった、という点である。公然とインセストタブーをやぶろうとする光源氏の存在はいかにも「無法者」である。しかも彼が世が世ならば皇子であったことが興味深い。
 隠岐の人々は日露戦争末期の日本海海戦で漂着したロシア兵を、敵と知りながらも手厚く保護し、あるいは弔った。これも外部の人にはとりあえず「恩送り」をしておき、いざというときには助けてもらおうという本能的な戦略があったからかもしれない。
 モノやヒトの移動で社会は絶えず変化し続ける。それが構造なのだ。そしてこの「諸行無常」の構造という尺度から見れば、文明も野生も貴賤もないのだ。

因幡の白兎と七夕伝説
 隠岐から見て対岸のことを島民たちは「本土」と呼ぶ。ちなみに広島や大阪や東京は「本土」にありながらも、観念上の「本土」とは太古の昔からかかわりのある島根県と鳥取県のみを指すようだ。
 「古事記」にある「因幡の白兎」の出身地は鳥取県東部の因幡ではなく、隠岐である。隠岐の白兎が「本土」に憧れて「ワニ(≒サメ)」をだまし、本土まで一直線に並べ、数えるふりをする。しかし調子に乗って最後に策略だったことをばらしたため、怒ったサメたちに皮をはがされた。そこに通りかかった「オオナムチ」こと大国主命がウサギを憐れんでガマの穂で傷を治してやったという話は、子どものころから何度も聞いていた。
 ところで七夕というと七月七日に織姫と彦星が天の川で逢う日ということになっているが、なんとなく宙をふわふわ浮かびながら出逢うものだと思っていたのは私だけではあるまい。しかも雨が降るとその年は二人は出会えない、ということになってはいまいか。実はこれは日本の「ローカルルール」で、七夕伝説発祥の地の中国でも朝鮮半島でも、その日はカササギが一直線に並び、牽牛織女はその上を飛び石のように踏みながらであうのだという。この話を中国人の友人から聞いた時、私が真っ先に連想したのが「因幡の白兎」だった。
 そういえば奈良時代に因幡の国司として赴任し、「万葉集」を編纂したとされる大伴家持の和歌で百人一首にも入っている歌は
「かささぎの 渡せる橋に おく霜の 白きを見れば 夜ぞ更けにける」
である。万葉の時代は遣唐使の影響か、「かささぎの渡せる橋」という概念があったのだろう。意外なところで因幡と唐がつながった。
 
アメリカ大陸ともつながる因幡
 レヴィ=ストロースは「月の裏側」で因幡の白兎について一章を割いている。曰く、
「 アメリカ先住民の神話は、北アメリカでも南アメリカでも、類似した物語を含んでおり、アメリカ先住民神話において、これらの物語は重要な位置を占める。このことはそれゆえ因幡の野兎の物語を解明するのに役立ってくれる。」
 日本海の向こうの中国と因幡がつながるのはともかく、はるかアメリカ大陸ともつながってしまった。アメリカ先住民の研究で世に知られた彼は、60年代から神話研究に没頭した。人間のもつ普遍的な精神の構造を知るために先住民を研究していたわけだが、それ以上に余計な枝葉のない、純粋さを保つものこそ神話ではないか。それを研究してこそ構造がくっきりと浮かび上がるのではないか。そのような気持ちで神話を研究していくと、神話にもいくつかのパターンがあり、それを換骨奪胎したものが世界中に散らばるばらばらな神話群だという。
 彼の神話の構造分析の手法はユニークである。
①ストーリーをぶつ切りし、トピックを内容ごとに分類。
②ぶつ切りにしたトピックの中に対立構造がないか検証。
③トピックを対立構造ごとに並べなおし、「共通項」を洗い出す。
 とはいえこれはレヴィ=ストロースだからなせる業であり、一般人には無理であるとの批判もある。ちなみに神話学とはいってもこれは「文系脳」ではなく「理系脳」によるもののようだ。

神話と目の前の風景がクロスオーバーする
 白兎がオオナムチに助けられたという白兎(はくと)海岸の西側には気多ノ前(けたのさき)展望広場がある。「気多」といえば能登の「気多大社」や越中の「気多神社」、越後の「居多(こた)神社」など、オオナムチを祭る北陸の神社とのつながりが連想される。
 それはさておき、この展望広場からは目の前に岩礁が見える。その名は淤岐之島(おきのしま)だ。白兎が住んでいた「オキ」とはこんな小さな岩礁なのか、と思う間もじきに打ち消された。こんなところにサメが並ぶのは無理ではないか。とはいえはるかかなたの隠岐島からここまでサメがつながって、その上をウサギが飛んでくるなんて荒唐無稽な…などと考えているうちに、神話なので事実ではないことを真剣に推理する自分が滑稽に思えてきた。
 展望台から国道9号線を超えるとその名も白兎神社である。鳥居をくぐると神代をしのばせるガマの穂が生えている。これも後世の創作であろうが、それを見ながら皮がずるむけになった哀れな白兎をイメージしなかったといえばうそになる。レヴィ=ストロースはいう。
「私たち西洋人にとっては、一つの深淵が、神話と歴史を隔てています。反対に私が最も心を惹かれる日本の魅力の一つは、神話と歴史相互のあいだに、親密なつながりがあることです。」
 目の前の風景が神話とつながっていることをなんの不思議もなく思っているのは神話の里、出雲生まれの私だけではなかろう。そしてそうした心のありようこそが彼の憧れる日本人の姿なのだ。

心をむなしくして見える構造
 ただレヴィ=ストロースがこの話を見る見方はよく言えば客観的な冷静さを保っているが、悪く言えば冷たさを感じる。「神話と意味」にみられる彼の次の発言からは、彼が特定の立場から物事を観察するのを抑えていることがわかる。
「私は以前から現在にいたるまで、自分の個人的アイデンティティの実感を持ったことがありません。私というものは、何かが起きる場所のように私自身には思えますが、『私』がどうするとか『私を』こうするとかいうことはありません。私たち各自が、物事の起こる交差点のようなものです」
 つまりレヴィ=ストロースは自分を勘定に入れて構造を作ろうとすると、恣意的になることを知っているため、漱石ではないがあえて「則天去私(私情を捨てて天の法則に則る)」を貫いていたのだろう。さらにいうなら、自分(レヴィ=ストロース)の意識が世界の構造を認識するのではない。心をむなしくしてじっと見れば何かが見えてくる。それは心が温かい、冷たいというよりも、「無になる」ということである。
 「構造」とはこうした「禅の悟り」に近いものなのだろう。また「構造主義との対話」のなかではこうも言っている。
「私の仲介で、神話がそれ自体で再構成するからであって、私はただ神話群が通り過ぎていく場であろうと努めるだけです。」
 「因幡の白兎」に類似した伝説はアメリカ大陸にも中国にもある。しかしそれらは自然に離合集散しつつ成り立つものであって、そうとしりつつそれらを「切り貼り」して分析する自分に自戒の念として自我を捨てようとしているように思える。構造を見極めようとしたレヴィ=ストロースには、雲水の禅修行のような姿勢を感じずにはいられない。

ロジックよりも大切なこと
 禅修行と構造主義といえば、レヴィ=ストロースは禅についてこのような一節を残している。
「ギリシャ人以来、西洋は言葉を理性のために用いれば、人は世界を理解できると信じてきました。しっかりと構成された言語は現実と一致し、事物の秩序に到達し、それを忠実に表現できると考えていたのです。反対に東洋的な考え方では、どんな言葉も現実とは一致しないのです。 」
 つまり「古事記」に書かれた神話の世界と現実の世界は一致しないことが前提であるが、それについて論理的に詮索するのは、少なくとも東洋的な価値観ではあまり意味があることとは言えなさそうだ。我々の日常生活でもロジックを通す人に対して「言ってることはそうなんだろうけど、なんだかなあ…」と、思うことはしばしばあるではないか。それよりも今なおこの海岸一帯に残る神話の雰囲気をそのまま受け入れることのほうが大切に思えてくる。
 そしてこの神話の世界そのままが味わえる因幡の白兎伝説を含む出雲神話のふるさとから場面を変え、天孫降臨神話をもつ日向高千穂に場所を移そうと思う。

神代の空気そのままの日向へ
 「古事記」の舞台は、高天原を除くとまずは大八島(おおやしま≒日本列島)の中で最初に生まれた淡路島から始まり、すぐに舞台は出雲のヤマタノオロチ伝説や因幡の白兎伝説などの「山陰系」が続く。と思ったら高天原の天照大神と出雲の大国主命との間の「国譲り」が信州諏訪で終わる。ここまでがいわゆる「出雲神話」であるが、そのあとは国を「譲られた」天照大神の孫、ニニギノミコトが日向高千穂に降り立つ。いわゆる「天孫降臨」だ。そこからはしばらく「日向神話」が続く。
 天孫降臨の場所は主に宮崎県北西部の高千穂町、または南西部で鹿児島県と県境を接する霧島ということになっている。飛行機が鹿児島空港に降り立つときは霧島付近を旋回するが、まるでニニギノミコトの天孫降臨を体験しているようでワクワクする。また五ヶ瀬川上流の高千穂峡や天安河原を有する高千穂町は、わたしの生まれ育ったヤマタノオロチ伝説で知られる奥出雲・斐伊川流域と流れる空気がそっくりで、まさに神代を感じさせる空間だ。レヴィ=ストロースはいう。
「遺跡を訪れる人が、聖書の内容は信じているが客観的精神の持ち主であった場合、キリスト教のエピソードは実際にあったことだと思っていても、本当にその出来事がこの場所で起こったかどうかには疑問を抱くのです。九州では、このようなことは全く問題になりません。人々はそこで、あっけらかんとして神話的空気に浸るのです.。より正確に言えば、この状況(コンテキスト)では歴史性を問題にすることが適切ではないのです。(中略)比類のない見事な風景が神話群を豊かにし、美化し、目に見える具体的なものに仕立てるのです。」
 レヴィ=ストロースは一点勘違いしている。九州だけで「あっけらかんとして神話的空気に浸る」のではない。出雲にせよ日向にせよ、あるいは日向神話の後に出てくる熊野にせよ大和にせよ、日本は今なお神話ムードそのままの場所が山ほどあるのだ。

レゴランドと構造主義
 奥出雲人の私にとって、「古事記」は先祖出雲族を滅ぼした大和王権の正統性を宣伝するプロパガンダに見えなくもないが、一方でそこに記載されているヤマタノオロチは私のアイデンティティの一つでもある。突っ込みどころ満載ではあるが、「古事記」は民族の源流を探求するうえで立ち返るべき「カノン(正典)」である。一方のレヴィ=ストロースはアメリカ先住民をはじめとする世界の神話を研究してきただけあって、「古事記」の見方は極めてグローバルだ。
「私がいま要約してお話しした神話上の出来事で、日本だけに固有のものは一つもありません。(中略)けれども、八世紀に書かれた皆さまのテキストほど、こういったばらばらな要素を、これほどしっかりと構成し、極めて大きなスケールでまとめ上げた例は、他のどこにもありません。」
 つまり「古事記」の個々のストーリーは世界中にあっても、ここまできちんとまとまっているものはない、というのだ。なるほど、構造主義に基づく彼の神話研究の手法は、ストーリーをいったんバラバラにして比較検討するものである。パーツは同じで、そのパーツの組み合わせ方で別の神話になることを発見したのだ。言ってみればレゴで家を組み立てても車を組み立てても、ばらばらにすれば赤、青、黄、色、白、黒など各種のレゴに過ぎない。これが構造主義の本質なのだろう。とするなら「古事記」の世界はさしずめ各地の神話をストーリー立ててレゴで積みなおした「レゴランド」の作品のようなものなのではなかろうか。

巨大なトーテムポールとしての「八紘一宇(はっこういちう)の塔」
 宮崎市平和台公園には何度見ても不思議な「塔」がある。1940年の神武天皇即位2600年記念を祝した国家プロジェクトの際に建てられた「八紘之基柱(あめつちのもとはしら)」、通称「八紘一宇の塔」である。「八紘一宇」とは「日本書紀」に書かれた言葉による成語だが、戦時中は日本を中心にしてアジアを支配下に置く「大東亜共栄圏」のプロパガンダとして転用されたコンセプトである。
 戦後はGHQに危険視されたため、36メートル余りの塔の正面に書かれている「八紘一宇」の文字は消されたが、1960年に書き直された。そして塔の足元には古墳時代の鎧兜に身を包んだ四人の守護神が四方を守っている。「時代錯誤」にも思えたが、それよりもなによりも得体のしれない「異形さ」を感じた。今思うと、あれは日本最大の「トーテムポール」だったのだろう。
 「今日のトーテミスム」を著したレヴィ=ストロースは「トーテム」とは、その集団の先祖がある特定の動植物と深いかかわりがあると考えることだという。それをシンボル化したトーテムポールはアメリカ大陸各地でみられる。
南方系と北方系の融合から生まれた皇室の先祖
 日向でいえば日南市の岩屋にある鵜戸神宮で神武天皇の父、ウガヤフキアエズを生んだ豊玉姫の正体はワニ≒サメということになっている。生物学的にはあり得なくとも、皇室のルーツの一つがサメの多い南方であることを示唆している。すると日向における神々にとってワニがトーテムとなる。
 一方でウガヤフキアエズの父は「山幸彦」として知られるホオリ(火折)である。宮崎県椎葉村では今なお古代より続く焼き畑農業をしてきた。「山」で「火」というとまず火山を思い起こすが、火山は「幸」をもたらさない。「火を折る」=火をコントロールして山の幸をいただくのはこの焼き畑農業をあらわしているのではないか。だとすると神武天皇の父親は焼畑の民と海洋の民の混血であったのではないか、などというのが連想できる。
 今目の前に八紘一宇の塔が何者かに忘れ去られたかのように立ち尽くしている。特に動物をモチーフとした彫刻は目立たないが、日本およびアジア各地から寄進を受けた石を積み重ねて作られたこの石塔は、こここそ大陸の焼畑の民から南方の海洋の民まで一つになった皇室の象徴としての、つまり皇室のルーツが実はアジア全体にあったことを示したため、「父祖の地『亜細亜』への里帰り」だったように思えてならない。
 そして民族のトーテム信仰をアジア諸国への軍事侵攻に利用したために、戦後の我々は「神話」の負の側面を目の当たりにし、神話はこの国の民の意識からはじめは意図的に、そのうちごく自然に追いやられてしまった。

「思考する」神話
 ところでレヴィ=ストロースは「生のものと火にかけたもの」という著作の中で神話に関して意味深長なことを述べている。
「私がここで示したいと思うのは、人間が神話の中でいかに思考するではなく、神話が人間の中で人間に知られることなく、いかに思考するかである。」
 私という人間は子どものころから出雲神話の世界にどっぷりつかって、その中で神話について考えてきた。しかし我々が意志を持っていないことを前提としている神話も、彼に言わせれば「思考して」いるというのだ。私はこのくだりを読んで、まず違和感を持った。神話というのは昔と今をつなぐと同時に、それが生まれた時代の社会を反映している、つまり「人間が神話を作り出した」と思ってきたからだ。少なくとも「古事記」は大和政権のプロパガンダとしての要素が強い、人間の作った神話だと思ってきた。
 しかし出雲や日向、熊野、大和盆地などを歩いているうちに、まずは神話と歴史の区別がつかなくなってきた。次に個々の神話が、まるで風呂場の壁の水滴が近くの水滴とくっついて大きな水滴になって下に流れ、さらにほかの水滴をも取り込んで大きなしずくになっていくかのように、ほかの神話とくっついて流れていくかのように思えてきた。神話に意志があるかどうかはわからないが、風呂場の壁の水滴が垂れて流れて大きくなるような感じでできたものに手を加えたのが神話ではないだろうかと思えるようになってきたのだ。
 神話についての考えがコペルニクス的転換を迎えてしまった。この日本の構造を改めてみるために、列島縦断の最後に首都、東京に戻ってみたい。

日本のヴェネツィア(?)の衝撃
 レヴィ=ストロースが東京で最も衝撃を受けたところはどこだろうか。浅草か、谷根千か、上野か、と思いきや、意外も意外、江東区の佃島である。このくだりを読んで、私はレヴィ=ストロースが地名を間違えたのではと思った。
 わたしの佃島の印象は、自分の東京での家がある西日暮里以上に道が狭くてごちゃごちゃしている下町で、空襲に焼け残った小さな家屋群の隙間からタワーマンションが林立しているのが見える、という、地元の方には大変失礼ながらそれほど魅力的には思えない場所だったからだ。しかし彼はその衝撃を全く隠さない。 
「佃島には、衝撃を受けました。なぜといって、すっかり緑に囲まれた、あの小さな木の家たち、自分の仕事着姿なのに、昔風に装っているような印象をいくぶん与える漁師たち、私たちが航行した小舟、こうしたものすべてが、北斎と、かくも美しいあの画集『隅田川両岸一覧』を一挙に私に思い出させてくれたのです。言い換えれば、ヴェネツィアにも匹敵する文明の恐らく最も偉大な成功例を、です。」
 あそこで彼は北斎を感じたのだ。全くこの答えは予期せぬものだった。言われてみれば空襲で全焼した墨田区の北斎美術館近辺よりはいいのかもしれない。少なくとも昭和末期の佃島は。ただ、下を見ればあの1mないほどの路地にはみ出そうなほどの、いや、実際はみ出しているプランターに自転車が雑然とならび、上を見ればごちゃごちゃした電線が走る佃島。さらに夏にはコンクリートで覆われた河岸はお世辞にも良い香りとは言えない匂いの佃島だ。
 ヴェネツィアとはこんなところなのか?私にとって「日本のヴェネツィア」は松江と柳川と城崎温泉だ。彼は単に佃煮好きの「変なガイジンさん」じゃないのか?などと思いつつ「月の裏側」を読み進めると、私のこの思いに対する答えが書いてあった。

開放的で解放感あふれる佃島
「私があなたにお伝えしたいと思うのは、私が日本に行ったとき、大勢の日本人が私に言ったことです。『何よりも、東京に尻込みしないように。東京は醜い街ですから。』ところで私はこの印象を現代の東京についてまったくもちませんでした。」

 やはり彼の周りの日本人も彼に私と同じようなことを言ったに違いない。そしてその理由はというと…
「なぜなら、私たちの文明において、どこまでそれが拘束的だったか考えていなかった、街路というものから私は解放されるのを感じたからです。家が一軒一軒ほかの家と接着させられてできている街路、それにひきかえ東京では、建物は、こう言ってよければ遥かに多くの自由さで据え付けられており、いたるところ多様さの印象を与えています。」
 つまり整然とした道路こそ、彼が戦ってきた抑圧的、拘束的な「文明」のシンボルだったのだ。それに引き換えここはごちゃごちゃしており、「生活感」があふれている。いや、溢れすぎている。そこに生活感あふれる浮世絵の世界を感じたのだ。
 一方、日暮里の下町に住んできた私にとっては、この潮風と佃煮とあさり丼に「海の近さ」を感じ、日暮里とは異なる解放感を感じたというのは事実だ。歩いているうちに住吉大社を見つけた。1644年に大坂の漁民に干拓させ、移住させたのがこの人工島の起源だというが、浪速っ子が開いた街だとやはり開放的なのかもしれない。
 今回のレヴィ=ストロースの旅は、お茶の水駅から南の神田神保町に向かうところから始まった。旅の終わりに、レヴィ=ストロースが生きていたら面白そうな町を考えた。そして彼がどんな反応を示すだろうか想像してみよう。 

湯島聖堂
 原点のお茶の水に戻り、今度は北、つまり神田川にかかる聖橋を渡ってみよう。岸辺に見える緑色の屋根が湯島聖堂である。孔子廟であり儒学の学問所として徳川五代将軍綱吉によって建てられた聖堂だが、風水の影響で北に山、南に水(=神田川)がある。孔子廟に限らず、王宮や陵墓、寺院などは今なお風水にこだわる。地図で確認すると、ここも完全に東西南北を厳密に守り、真北に孔子を祭っている。
 風水など迷信だ、というのはたやすいが、これは西洋人が東洋やアメリカ大陸、アフリカ大陸などの「未開人」の社会を遅れているものとして無視してきた歴史と同じである。迷信に見えてもそこに何らかのメカニズム=「構造」があるはずだ。それを心をむなしくして見てみよ、とレヴィ=ストロースは繰り返し述べてきた。
 北半球では南風が熱い。南に水があれば、夏の熱気を和らげてくれる。さらに冬には北風に見舞われるのを多少なりとも防いでくれるのが山ではないか。一年中電気やガスや化石燃料で室内だけを快適にすることしか考えなかった我々「文明人」の驕りを、この聖堂は無言のままたしなめてくれているような気がする。

血のつながりを重視する儒教も「構造」のフィルターを通すと…
 儒教は血のつながりを重視する。親がいるから私がいる。だから血を絶やさぬように子孫を繁栄させよ、という。よって家族ほど安心できるものはない、と考えるのが儒教の特性であろうが、レヴィ=ストロースの大胆な仮説は「家族だから親密なのではない。家族という『構造』を維持するために親密にしようと役割を演じているのだ。」というものだ。
 家族というメカニズムを維持するために、たとえ遊び人でも妻子を持てば「よき父」を演じるようになることが求められる。つまり「人間が社会構造を作り上げる」という「人間中心主義」から、「社会構造に応じて人間がその役割を果たす」という「初めに構造ありき」的メカニズムを全社会にあてはめようとしたのである。ここで先述したように集落や一族の中から女性を外部に送り、また外部から「嫁」をもらい、集落や一族を永らえてきたのだ。
 この聖堂では受験祈願をする人が多いが、それも孔子が学問の神様とされているためであろう。儒教はなぜ学問を重視するのか。君子になり、人々を導くため、という模範解答はひとまず置いておこう。中華圏では代々官僚を選抜するための科挙が行われてきた。科挙であなたが役人になれれば、一族はあなたにぶらさがり、ひとまずは安泰だったのだ。このように女性も他の集落との交換のコマとして使われただけでなく、男性も一族繁栄のためのコマとして使われていたのだ。構造主義にはこうした社会のメカニズムを暴く働きもあるのだ。

グラフィック・アートのルーツ「鳥獣人物戯画」
  湯島聖堂から東に向かうと秋葉原である。2009年に亡くなったレヴィ=ストロースだが、もし令和の東京に来たならば興味深く思うのが秋葉原ではないかとこの町を歩きながらじわじわと思えてきた。
 生前の彼は、日本文化の一つとしてあらゆるものが混ざり合わないように整頓して配置する「ディビジョニズム」があるという。例えば食でいうならおせち料理などは仕切りで仕切って味が混ざらないようにする。彼がいたく感銘を受けた築地市場なども、人々であふれてはいても売り場は整然と並び、隣との仕切りできちんと分ける。そして彼が日本に関して「疑いのない特性」として挙げるものは、料理のほかにグラフィック・アートと音楽である。そのうちグラフィック・アートについては、こう述べている。
「グラフィック・アートの領域で、この遊びへの嗜好は極めて早い時代、十二世紀の画家でもあった僧侶鳥羽僧正の有名な絵巻(鳥獣人物戯画)に現れている。 」
 鳥獣人物戯画はウサギやサルやカエルなどが実物としてでなくキャラクターとして描かれている、おそらく現存最古の例だろうが、その系譜をひくものが江戸時代の浮世絵であり、昭和の漫画であり、それから派生したアニメとなるのだろう。この町ほど巨大なアニメのビルボードが街並みを埋め尽くしているところもなさそうだが、それらのすべてがグラフィック・アートといえる。

カオスの中のディビジョニズム
 一見カオスに見える秋葉原などにしてもディビジョニズムは観察できる。例えば秋葉原駅前の老舗、ラジオ会館などは、階によってカード類、ゲーム類、書籍類、フィギュア類、ドールなど、それぞれ販売するものが異なる。またガチャガチャが四百台以上あるというガチャポン会館なども、仏像、城郭、観光地、特定のアニメキャラ、昆虫など、雑然としながらも分類はきちんとできている。
 「昭和のころ」は、こうしたものは子どものおもちゃとみなされていた。だから私もいつの間にかこうしたものを「卒業」していた。しかしこの町は違う。レヴィ=ストロースも言う。
「日本で私は、ひどく真面目そうな銀行家や実業家までが、たわいない玩具に魅了されていることに驚いた。ヨーロッパで同じような立場の人は、そういうものに無関心か、無関心を装うだろう。」
 興味深いことにヨーロッパ人などにしてもこの町では童心にかえって買い物三昧である。ここはディズニーランドとは別の意味で、いつまでも子どものままでいることを許される町だといえよう。

単なる「カワイイ」から「グロカワ」「キモカワ」へ
 この町では外壁一面が「カワイイ」二次元キャラで覆いつくされ、実は違法ではあるのだがメイド喫茶のメイドさんたちもずらりとならんで客引きをしている。レンタルショーケースでもアニメキャラの「カワイイ」フィギュアたちが「手招き」している。かわいさに「萌える」町でありながらも、単にカワイイだけではない。
 あちこちで販売されているものを見ていくうちに、単にかわいいだけのグッズ、例えばハローキティやアンパンマンなどはほとんどみない。いわゆる「グロカワ」「キモカワ」といった、「カワユサ」とは相容れないものが同居するキャラクターも極めて多い。それらが百鬼夜行するのが日本特有の「ハロウィン」のコスプレである。レヴィ=ストロースの言葉を思い出す。
「一切の二項対立を超えて、二項対立がもはや意味をもたなくなるような状態に達することなのである。(中略)それは存在とものに一切の永続性を認めず、存在と非存在、生と死、空虚と充実、自己と他者、美と醜の区別が消える境地に悟りによって到達しようとするものだ。」
 かわいさとグロテスクさ、気持ち悪さはそれぞれ対立する。しかし秋葉原のキャラクターを見ていると、これらがうまく組み合わさって別の魅力的な個性となっている。つまり整然と区分したディビジョニズムの中にあるものは、美と醜、カワイイとキモいとグロいの区別が消えて混然一体となった境地なのだ。そしてこの傾向は秋葉原だけでなく日本の文化史全般において言える。

結局戻るところは縄文なのか
 レヴィ=ストロースは曰く、
「言うまでもなく、日本は多くの影響を受けてきました。特に中国と朝鮮からの影響、ついでヨーロッパと北アメリカからの影響です。けれども日本が私に驚異的に思われるのは、日本はそれらを極めてよく同化したために、そこから別のものを作り出したことです。」
 確かにそうだ。ここから1㎞ほどのところにある湯島聖堂は中国から来た儒教の聖地だが、ところどころ和風に染まっている。またこの町のいたるところで見られる黄色と黒の人目をひく看板のラーメン屋も、やはり中国をルーツとしているだろうが、中国にはないくらいに完全に日本化しているため、中国人は中華料理の一種とは考えていない。そしてさらに彼は続ける。
「さらに私が何としても忘れたくないもう一つの面は、これらのどの影響を受ける前に、あなたがたは縄文文明という一つの文明を持っていたことです。縄文文明は、人類における最古の土器を作り出しただけではなく、それがきわめて独創的な感覚によるものなので世界のどこにもどこでもこれに比肩しうるいかなる種類の土器を見出すことができないのです。」
 ピンときた。グロテスクさも気持ち悪さも、異形の土偶や縄文土器そのままではないか。それらが整然とした稲作文化の弥生文化と融合した。そうした縄文文化と最近のトレンドが絶えず融合を繰り返し、換骨奪胎をつづけてきたのが日本文化ではあるまいか。
 ガチャガチャのコーナーで面白いものを見つけた。岡本太郎のコレクションである。彼の作品を極めてリアルに再現し、小さくして持ち歩けるようにしたもののシリーズである。縄文文化をほうふつとさせるこの異形の作品群を見ながら、昔東京国立博物館で見たあるものを思い出した。それは縄文時代の赤ちゃんの小さな手形を土に押し付け、上にひもを通すための穴をあけて素焼きにしたものだ。やはりこの町には、そして日本中に、縄文があふれている。

まだぎりぎり間に合うかも
 レヴィ=ストロースは「月の裏側」の訳者、川田順造氏との対談をこう締めくくる。
「この独創性によって、日本人は私たちを豊かにしてくれることができるのです。」
 つまり、縄文に代表される「野生の思考」と、近代文明を無理なく融合できる独創性が、世界に冠たるサブカルチャーを生みだし、世界的に見れば本流ではないかもしれないが、オルタナティブな生き方としての暮らしの「幅」を広げており、それが豊かさにつながる。
 日本文化は一見中国や朝鮮、そして西洋や欧米から来た舶来文化と見分けがつかないこともあるが、その根底にはしばしばこの列島のネイティブカルチャーとしての縄文文化が流れている。グローバル化により日本の政治的、経済的スタンスは低下する一方だ。しかし英語やプログラミングなどで数値化できる表面的なスペックを高めて「武装」をする一方で、先祖代々伝えられてきた「野生の思考」にその都度立ち返るということも忘れるな、今ならまだぎりぎり間に合うぞ、というのが、20世紀最大の思想家の一人、レヴィ=ストロースの日本人に対するメッセージであり、遺言でもあるということだったに違いない。(了)


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