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武士道とは「不器用」とみつけたり          ―東アジアと東北

   
①新渡戸への憧れから失望へー盛岡 
青少年時代の私と武士道

 私は柔道を数年やっただけで、本格的に武道をやったことはない。しかし少年時代には武道の精神、「武士道」に対して硬派な憧れがあった。小学四年生の時、柔道の道場に通っていた。実力はさっぱりだったが、稽古が終わった後に正座をして黙想をしている一分間は、自分がなにかサムライになったかのように思え、強くなったような気がする自分が好きだった。それだけだ。
 高校時代には英語学習に熱を上げると同時に、日本史が好きで、日本のことが英語で外国人に説明できるようになればとなんとなく思うようになっていた。英語学習を通して欧米人がサムライに関心があることを知り、手に取った本が、新渡戸稲造の「武士道」であった。十七歳だった私はこれに少なからぬ影響を受けた。原文(英語)は格調が高すぎて読めず、和訳であった。しかし英米文学、ひいてはギリシャやローマの話まで引用してサムライのみならず「日本学」全般に関して比較文化的アプローチで説明するその博識さにはもちろんのこと、満身創痍で国を背負う男の迫力に惹かれた。
 大学時代に初めて彼のふるさとの盛岡に行ったとき、盛岡城跡公園で、彼の東大入試時の面接で志望動機を聞かれて答えた言葉「願はくは われ太平洋の橋とならん」という言葉が刻まれた石碑を見たとき、体が震えた。私もかくありたいと思った。通訳案内業という職業に興味を持ったのもそのころだった。大学卒業後、中国に滞在していた時、百冊ほど持って行った本の中にも「武士道」があった。

 「敗戦国」盛岡が生んだ詩人
 しかしその後、彼について調べていくうち、違和感を覚えることが増えてきた。まず、彼の植民地主義の肯定である。彼は満洲等の政権が安定しない地域に関しては、「きちんとした国」が統治することを否定していないことを知った。台湾で製糖などにより成果を収めた彼の実績がそう思わせるのだろう。
  ただその理屈でいうならば戊辰戦争の際の旧幕府方の「奥羽越列藩同盟」など、会津藩に対する同情と地域性ぐらいしか共通性のないバラバラな連立政権は、敗れるべくして敗れたというべきかもしれない。実際、会津、庄内、仙台などとともに奥羽越列藩同盟の一つだったのが、彼のふるさとの南部藩だった。彼が若いころ東京に出て英語学習に全身全霊を注ぎ、その後農政学を専攻とし、できたばかりの札幌農学校に学んだのも、「敗戦国」の盛岡藩出身者が出世できる数少ない道をそこに見出したからだ。
 盛岡は近代において優秀な人材を少なからず輩出している。盛岡城址公園では彼の他に石川啄木の歌碑もある。
 「不来方(こずかた)の お城の草の草に 寝ころびて 空に吸はれし 十五の心」
 また、盛岡駅前にも、ふるさとの山、南部富士岩手山を詠んだ啄木の歌碑がある。
「ふるさとの山に向ひて 言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな」
  しかし、彼は立身出世の人物ではない。むしろ出世コースからは程遠いところにあった哀愁ただよう歌人である。後に同じくこの町で学んだ宮沢賢治もまたしかりである。
  結局この町が生んだ立身出世の両横綱は、大正デモクラシーの象徴的人物、「平民宰相」として一時人気を得た原敬と、国際連盟事務次長までなった新渡戸稲造だった。

新渡戸稲造への憧れから失望へ
  「敗戦国」の痛みが分かっているはずの彼。列強との間の不平等条約がいまだ完全に改正されていない時代に「武士道」を「日本人のこころ」として英語で列強に叫んだ彼。それなのに、晩年は満洲国建国についてオフレコで軍部を批判したかが、軍部ににらまれると舌の根も乾かぬうちにそれを訂正して「失言」を陳謝した。
 もちろんだれだって自分がかわいいのは分かっている。しかし武士道の三つの要素が
・危険や災難を前にしてもたじろかない仏教
・忠義と祖先への孝行を重んじる神道
・君臣、親子、夫婦などの人間関係を重んじる儒教
などとのたまう人物が、自分の発言に責任を持たなかったということに対する失望は小さくなかった。
 「武士道」を書いたからと言って、彼自身が「武士道」に殉じたわけではないことが分かると、私はしだいに彼の説く「武士道」そのものに対しても熱が冷めてきた。四十代を前にして盛岡を再訪した時は、より客観的に彼を見るようになっていた。
 とはいえ、東北を旅する回数が増えるにつれ、日本一「武士道的」な地域は東北であると強く感じるようになってきた。今回は「武士道」を書いた新渡戸のふるさと、東北を歩きつつ、本当の「武士道的」な生き方を選んだ東北人たちを紹介したい。


②武士道と「ハン」の息づく会津のまち
 新渡戸の登場以前で「武士道」というと、17世紀の佐賀藩の山本常朝が著した「葉隠」の言葉、「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」を思い起こす。この名言の後はこのように続く。「二つ二つの場にて、早く死方(しぬかた)に片付ばかり也。(生と死という選択があれば、速攻で死ぬほうを選べ)」
 自暴自棄にならぬかぎり、だれだって生きていたいだろう。それなのになぜ死を選ぶのか。当時は死に直面して生を選んだ場合は「臆病者」のそしりを受け、世間の冷たい目に耐えられないという事情があったため、死ねば名誉だけは保てるという、いわば「マイナスと超マイナスでは即刻マイナスを選べ」「損して得取れ」ということなのだろう。しかし自分の命がなくなるのである。投資の「損切り」とはわけが違う。
 ただ言えるのは「要領よく生きる」ことは武士道的ではない。むしろ「不器用な生き方を選ぶ」ことこそ武士道的であるとはいえるだろう。そしてその武士道的「不器用な生き方」が最も現れるのが他でもない、東北を中心とした北国である。

会津は武士道の里か、「ハン」の里か
 新渡戸は武士道の精神的ルーツとして神道、仏教、儒教をあげたが、その中でも最重要項目が儒教である。実際、「武士道」全十七章のうち、半分以上にあたる九章分のタイトルが儒教の徳目に関するものだ。
 儒教のエッセンスとして「三綱五常(さんこうごじょう)」というものがある。「三綱」とは君臣間のつながりの「忠」、親子のつながりの「孝」、夫婦のつながりの「悌」を表す。そして「五常」とは思いやりの心「仁」、ぶれずに正しいことを貫く「義」、相手に対する尊敬の意を表す「礼」、頭を使って考える「智」、そして人間関係の根本である「信」を指す。
 とはいえ「仁義礼智信忠孝悌」という八つの徳目のうち、重要度は異なる。例えば新渡戸は「信」をタイトルとする代わりに「正直、誠実」で代用させている。また、「智」と「孝」はタイトルにないが、「勇」「名誉」「克己」をタイトルとしている。

日新館と「什の掟」
 江戸時代の日本において儒教道徳を教え込んだのは、家庭以外では藩士の師弟が学んだ藩校が挙げられる。そして1980年代の「バブル狂想曲」が喧(かまびす)しく響き、各地で豪華ではあるが意図の不明な建造物が雨後の筍のように建てられたころ、百年以上前につぶされた藩校が場所を変えて不死鳥のごとく甦ったのが旧会津藩校の日新館である。
 そこは県内の青少年の研修施設として使用されるだけでなく、きちんとした孔子廟にもなっている。さらに戊辰戦争最大の激戦地にして、凄惨な地上戦が繰り広げられただけでなく、その後も筆舌に尽くしがたい茨の道を歩むことになった郷土の人々の歴史を後世に伝える「記憶再生装置」としての役割を果たしているのだ。
 門にはこの藩校で守るべき「什(じゅう)の掟(おきて)」が書かれている。
一、年長者の言ふことに背いてはなりませぬ
二、年長者には御辞儀をしなければなりませぬ
三、虚言を言ふ事はなりませぬ
四、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
五、弱い者をいぢめてはなりませぬ
六、戸外で物を食べてはなりませぬ
七、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです

これぞ「武士道」であろう。弱い者いじめをしない「仁」、年長者をたてたり食べ歩きをしたりしない「礼」、嘘偽りや卑怯なふるまいをしない「信」、「男女七歳にして席を同じうせず」といった概念は明らかに儒教に基づいている。ちなみに土産物屋ではこの掟が書かれたTシャツや湯飲みまで売られているので驚きだ。

どこか韓国っぽい会津
   私はこの町を歩きながら、どこか韓国っぽいと思うようになってきた。周辺を大国に囲まれた朝鮮半島は、歴史上何度も異民族の支配下に置かれたり侵犯を受けたりしてきたため、国王といえども周辺国の顔色をうかがわねばならなかった。そこで広まった思想が、だれが「正統」であるかを問いただす朱子学である。
   北方民族の支配下に置かれた南宋で生まれたこの儒学の一派が朝鮮半島で広まった理由の一つは、朝鮮も周辺国の支配下におかれており、そのような現実があったとしても「そもそもこの国を治めるべきは我が王朝である」という思いが強かったからだろう。
   韓国人の気質を表す言葉で「恨(ハン)」というものがある。この場合、「恨」という漢字で表記することはやめておこう。なぜなら自分をひどい目に遭わせた相手に対する「うらみ」というコンセプトとは大きく異なるからだ。
「ハン」とはひどい目に遭った自分の運命(八字(パルチャ))に対するものである。そして本来なら幸せであるべき自分と、現実のみじめな自分を対比したとき、その差の大きさを嘆き、それを少しでも埋めようとする方向に向かう、プラス思考でもあるのだ。これはネガティブな個人攻撃ではなく、無意識ではあるがポジティブな現状改革なのだ。

「ハン」あふれる会津
  地元のシルバーガイドの方に案内されながら、日新館に限らず会津若松の町を歩くと、まさにこの「ハン」が渦巻いていることに気づかされる。「そもそも我々は朝廷を守る京都守護職という立場だった。」「そもそも京都守護職に我が藩を命じた徳川将軍家が、大政奉還の直後に薩長と戦わずに軍艦で江戸にもどり、江戸を開城したために会津の悲劇が起こった。」「薩長に武士の情けのかけらでもあれば、我々は土地を取り上げられて着の身着のままで下北半島の不毛の地に送り込まれることはなかった。」あげればきりのないほどの「ハン」を聞かされた。そのやるせない思いが心の中でしこりとなり、ことあるごとにそれを昇華させようとするのが痛いほどよくわかった。
 日新館内の資料館では砲撃でぼろぼろになった満身創痍の鶴ヶ城天守の模型が飾られており、会津の悲劇を伝えているが、一方で戊辰戦争から約一世紀後の1965年に鉄筋コンクリートで外観復元されたのも、昭和の終わりに日新館を復元したのも、東日本大震災後に急遽会津藩士の娘を主人公とした「八重の桜」がNHK大河ドラマになったのも、会津の人々にとってはこの心のしこり(=ハン)を埋めることだったのだろう。
 
③「義」―切腹と白虎隊
 
武士道の中でも、新渡戸が欧米人からの誤解を解くべく声高に擁護するのが切腹の風習である。欧米人は切腹を残忍で野蛮なことと考える。それに対して彼はこう説明する。
「とくに身体のこの部分を選んで切るのは、魂と愛情が宿るところであるという古い解剖学的信念にもとづくからである。(中略)『私は、私の魂の宿るところを開いて、あなたにその様子を見せよう。それが汚れているか、清いかは、あなた自身で判断せよ』ということである。」
 記録に残る人物のうち、最初に切腹をしたのは藤原泰衡らに攻められたときの源義経であり、その場所は奥州平泉と言われる。同時代に西日本の平氏は壇ノ浦の戦いで追い詰められた際、腹を切らずに入水自殺している。ここに「切腹奥州発祥説」が出てきたのだろう。

白虎隊と「殺身成仁」
 同じく奥州・会津若松にて切腹した青少年たち、というとすぐ思い浮かぶのが白虎隊だが、彼らについて、新渡戸は「武士道」の中で言及していない。
 彼らが集団で腹を切った飯盛山の長い石段を登っていくと、道の両脇に石柱がたてられ、そこに「殺身成仁」と彫ってあった。その四文字にこめられた思いをかみしめつつ、さらに石段を上がると、城から煙が上がるのを見て切腹をした19名の、今でいうと高校生に当たる若き侍たちの墓石に全国から訪れた人々がたむけた線香の煙が立ち込める。
 特にシルバーガイドの方と一緒にいたからか、この町が1868年で精神的時間が止まってしまったかのような錯覚を覚えることにしばしば気づく。ガイドさんの説明は臨場感がありすぎた。鶴ヶ城では戊辰戦争の攻防戦の様子を、「この堀の向こうに長州軍がいて、それに対してこの石垣の陰から八重たちがスペンサー銃で応戦した。」「あの山からここに向けて佐賀藩のアームストロング砲が火をふいた。」など、幕末の話ではなくまるで沖縄戦の時代の話を聞いているかのような、「ついこの間のこと」を語る口ぶりなのだ。

あえて白虎隊を書かなかった新渡戸の深層
  この町は、時にその精神構造に朱子学的にして韓国的なものを見たかと思うと、またある時には沖縄戦での戦没者慰霊的なものも強く感じた。白虎隊士の墓は、いわば「ひめゆりの塔」の東北男子版ではないか。
 このように人々に知られた白虎隊であるが、新渡戸は「武士道」のなかで、彼らの自決に関して述べていない。述べれば藩閥政治に対する批判と取られると思ったからか。あるいは負け組の「恨み節」ととられるのが潔くないと思ったからか。ただ言えることは、彼は同じ東北の仲間たちである白虎隊のことを書きたいと思ったはずだが、あえて書かなかったとうことだろう。その心情を無視することはできない。
 ふたたび会津若松駅に戻ってレンタカーを返却し、白虎隊士の像に見送られつつこの町を去った。こうして1868年へのタイムスリップは終わった。

④「信」「ソンビ」安重根と「サムライ」千葉十七
 
宮城県、秋田県、岩手県にまたがる栗駒山。東日本大震災の半年後、この山のふもとの栗原市大林寺を訪れた。そこには「為國献身軍人本分」としっかりした筆遣いで刻んだ石碑がたてられている。朝鮮人、安重根の絶筆である。その半年前には最大級の激震が走ったこの地区ではあるが、この幸いにして石碑は倒れていなかった。
 新渡戸が「武士道」を英文で上梓(じょうし)した1900年、朝鮮半島は「大韓帝国」という仰々しい国号はあれども日露両国に挟まれ、急速に国力を失っていった。その後1904年に日露戦争が始まると、翌1905年第二次日韓協約によって韓国は外交権を日本に奪われ、大韓帝国皇帝の下で国政を統括する「統監府」が置かれたが、その統監が伊藤博文だった。
 1908年に「武士道」の日本語版が出版され、国内では尚武の精神がもてはやされたその翌1909年、韓国の独立を願う安重根は伊藤博文をハルピン駅で射殺した。その後遼東半島の先端にある日本側の基地、旅順にて尋問を受けたが、その時の看守だった千葉十七のふるさとがこの町である。

千葉十七と安重根
 千葉は旅順の檻の外から、伊藤博文を射殺したこの「テロリスト」の世話をしているうちに、安の信念である東洋平和に対して共感を持つようになった。そして処刑される直前に安が千葉に送った絶筆こそ、「為國献身軍人本分」だった。この力強い書を見たときに、脳内で「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」と、とっさに訳出された。
 国権を失いつつある祖国のために敵の大将を倒す。これは武士道でいうなら最大の「忠義」でなくてなんであろうか。新渡戸も言うように、日本で「義士」というと「赤穂義士」すなわち忠臣蔵の四十七士だが、韓国で「義士」といえば安重根を指す。この「魂の純粋さ」に武士道を見て、安重根に同情を寄せた明治人も少なくなかったというが、中でも若き千葉は安重根から毎日じかに薫陶を受ける機会のあったほぼ唯一の日本人だった。
 ふるさと奥州も、千葉が生まれる前に戊辰戦争の敗北によって「国権」を奪われた。とはいえ当初は「日本人」として元総理大臣を撃たれたこともあり、安重根を憎んでいたようだが、時がたつにつれ安重根の置かれた状況は他人ごとではなくなったのだろう。あるいは檻の向こうの「賊」の姿に、彼は「賊軍」の汚名を着せられたふるさとの人々を見たのかもしれない。
 そして何よりも、新渡戸の「武士道」が世に広まるにつれ、軽佻浮薄にさえ思える欧化主義の行き過ぎを反省し、この前時代的とはいえ先祖の残した「道」を再発見したという空気の変化も挙げられよう。そうなると欧米列強にならってアジアの「弱小国家」を支配しようとする自国に対する失望と、時流には乗らず不器用なまでに朝鮮流の「武士道」に殉じようとする安重根に対する畏敬の念が生じても不思議ではない。

「ソンビ」―朝鮮流サムライ
「筆は剣より強い」ことを前提とする朝鮮半島には「武士道」にぴったりの言葉はない。しかし学問をやる人間は自分の主義主張により、徹底的に相手を攻撃するという伝統がある。日本人のように「言わなくてもわかる」「言いたいことをそのままいうのははしたない」などという考えはそこにはない。むしろ「筆が剣」なのであり、自分の主義主張が受け入れられなければ一族が路頭に迷うという真剣勝負にあるのが朝鮮半島だったのだ。
 しかし一方で「一族を食わせていくための主義主張」ではなく、「自分が信じる正義に殉ずる」までの不器用な「サムライ」は朝鮮半島にもいた。それを固有語で「ソンビ(선비)」という。彼らは儒学を修める学者であるとともに、国家に一大事があったときにはどんなに貧しくとも立ち上がる。安重根がその意味ではソンビであった。それゆえ「長いものには巻かれろ」という現実主義者からは風車に立ち向かうドン・キホーテ的存在として揶揄されがちだが、彼らの生きざまこそ日本の武士道に近いものがあるようだ。
 新渡戸は武士道の特徴として「名誉を重んじること」を挙げているが、東北の田舎の農民の千葉にとって「木っ端役人」とはいえ憲兵という権力の座にあることは名誉なことに違いなかったろう。しかし千葉はその後、旅順での憲兵としての勤務をやめ、故郷で安重根を供養しつつ一庶民として無名のまま生涯を送った。
 「名誉」という世間の目を自分の価値基準とするのではなく、朝鮮人蔑視が横行したあの時代に、まわりに何と言われようとも愚直なまでに隣国の「サムライ」を弔うという一生を選び貫く、その不器用な信念こそ千葉なりの意地であり、武士道だったのかもしれない。お寺の本堂に置かれた安と千葉の位牌は、余震に備えてかあらかじめ横に寝かせられていたが、その仲良く横になったソンビとサムライに合掌礼拝し、寺を去った。

⑤「礼」―敵の魂をも供養する平泉中尊寺
 
極楽浄土を模したという中尊寺金色堂だが、平泉が世界遺産として登録されたのは、単に文化財としての価値からだけではない。世界遺産登録に必要なコンセプトは"OUV (outstanding universal value)"、すなわち卓越した普遍的価値である。平泉にも、そこに秘められた「恒久の平和」への願いにOUVがある。それは「怨親平等」、すなわち死ねば敵味方の区別なく礼を尽くし、供養するという思想である。
 中尊寺を開いた奥州藤原氏初代藤原清衡は、11世紀中期の前九年・後三年の役などで多くの血を流してきたことに心を痛めた。そして生きているときには敵味方にわかれて殺し合わねばならないのが運命だったとはいえ、死ねば区別なく、ともに極楽浄土に往生できるようにという想いが、中尊寺を建てさせたのだ。
 それまでも菅原道真を祀る天満宮など、葬り去った敵を供養することはあった。しかし敵を葬ることを生業とする武士の中で、敵味方の分け隔てなくともに礼を尽くして菩提を弔うという発想が生まれ、広がっていったのは実に興味深い。
 そしてこの発想は後に鎌倉円覚寺や九州北部の各蒙古塚において日蒙両国の兵を祀ったり、南京事件により絞首刑となる陸軍大将松井石根が中国江南の土を用いて熱海に興亜観音をつくり、日中戦争で亡くなった両国の兵を祀ったり、沖縄戦で亡くなった日米および英国、朝鮮半島、台湾など、軍民を問わずあらゆる国の人々の名を刻んだ「平和の礎(いしじ)」を造るという発想のもとになった。

南宋の秦檜と韓国の「破墓法」
 「仁」とは思いやりの心である。敵に対しても仁の心を忘れず、礼をもって供養し続けるという美徳は、例えば中国で「宋を敵に売った宰相」として漢奸(かんかん=売国奴)の第一に挙げられる秦檜が中国でどのような扱いを受けているかと比較するとわかりやすい。
 中国一の景勝地、杭州では、祖国南宋を守らんとして背中に「精忠報國」の入れ墨をし、金に徹底抗戦するが、最後には陥れられて亡くなった愛国者の代名詞ともいわれる岳飛の廟がある。しかしその近くに彼を謀殺した宰相秦檜とその妻の像の銅像がひざまずかされて作られており、観光客から棒でたたかれたり、つばを吐かれたりしている。
 類例として、韓国ではかつて日本側に協力した売国奴の墓を発掘できるとする「破墓法」が国会で審議されているが、いずれも日本的感覚では「そこまでやるか?」と強烈な違和感を感じないではいられない。
 中国や韓国の人々との交流を通して、親切のかたまりのような人に会う機会は、日本に比べるとはるかに多い。しかしそれは自分が「身内」と認められたときであって、実は「部外者」に対しては冷たいことも少なくない。ウチとソトをはっきりと分ける傾向も日本より強いのだ。
 それにしても「死屍に鞭打つ」ような行為は「仁」とか「礼」とかいう儒教的基準以前の問題で、日本では白眼視されまいか。これもおそらく日本人の間では、「怨親平等」的死生観が根付いているからなのだろう。

「怨親平等」は普遍的価値ではない?
 欧米においてもまたしかり。横浜には第二次世界大戦で日本と戦った英連邦の兵士の墓地がある。そこには日本兵の墓がないのは当然としても、米軍や中華民国の墓さえない。釜山にはUN墓地といって、朝鮮戦争の際、韓国を支援した国連軍とその医療従事者の墓地があるが、そこに中ソの兵の墓はない。秦檜や破墓法は論外としても、味方の霊のみ弔うというのが、おそらくグローバルスタンダードなのだろう。
 であるがゆえに、怨親平等の精神で敵味方なく往生を祈る平泉中尊寺が世界的な意味を持つのだ。そしてそれが後の武士道に与えた影響は多大である。

⑥義 津軽の生んだ「じょっぱり」山田良政
 
損得勘定で動かない武士道というのは実に不器用な生き方である。それは自我を捨てるというよりも、自らの信念に命を懸けるという意味で、究極の自由意志であり、「男のロマン」なのかもしれない。
 自由意志で信念に殉じたというと、かつて「大陸浪人」という言葉があった。それは清朝末期から中華民国にかけての混迷する大陸におもむき、独自の諜報能力や卓越した語学力、そして政財界から資金を調達する能力などによって、「内地」では生きにくかった時代に思うままに大陸を闊歩してきた男たちを指す。そこには「男のロマン」もあったが、実際に彼らを目にすると「胡散臭い」印象もいなめず、さらに中国の一般人からすると侵略のお先棒を担ぐ戦犯に思えたことだろう。そんな大陸浪人たちの出身地として挙げられるのが九州と東北であり、東北では特に津軽にそのような人々がいた。
 戊辰戦争当時、会津藩士たちには「藩」という絶対的な忠誠をしめす対象があった。南部藩の新渡戸はそのころ五歳前後ではあっても、親から藩主に対する忠義がいかなるものか教えられたはずである。
 彼のふるさと、盛岡からさらに北上した津軽の弘前では戊辰戦争中に一つの生命が生まれた。その名は山田良政。地元民でなければ近代日中関係に関心が深い方以外は聞いたことのない名かもしれないが、日中関係史上、彼の縁の下の力持ちとしての功績は小さくない。

中国語を学ぶサムライ
 大陸問題や藩閥政治を深く、激しく論じた同郷出身の反骨のジャーナリスト、陸羯南(くがかつなん)の影響で大陸雄飛を夢見た山田は、中国語を学んで日本海・東シナ海を股にかけ活躍した。そして「武士道」が米国で発刊された1899年に孫文ら中国の革命家と知り合い、この革命家と意気投合し、辛亥革命に身を投じることになる。
 「清朝打倒」をスローガンとした彼らを山縣有朋内閣は支援し、広東省恵州での武装蜂起に日本政府として武器弾薬が補給することを決定した。しかし1900年に伊藤博文内閣に戻るとこの計画は白紙に戻された。その旨の連絡係として恵州に赴くことになったのが、山田だったのだ。
 中国人のふりをして恵州に潜入した彼は革命派の仲間を置き去りにすることができず、最後までともに清朝と戦った。捕らえられても日本人であることを申し出れば命ばかりは助けられることだろうが、最後まで口を割らず、一中国人として処刑されたらしい。
 そのころ彼と孫文らとの関係は、わずか一年ほど。そして彼には日本という帰るべき祖国があり、中国は隣国に過ぎない。しかも新妻さえいた。孫文や中国に義理立てする必要は客観的にはないように見えるのだが、主従関係があるわけでもない孫文と仲間たちのために生き、死んだ彼は、究極の「浪花節」タイプの「不器用な男」だった。

英語を選んだ「表」の新渡戸と中国語を選んだ「裏」の山田
 津軽弁で損得勘定はないが意地っ張りのことを「じょっぱり」といい、津軽人の典型的性格とされるが、他人はどうであれ信じた道を貫いた彼は正に津軽のじょっぱりだった。
 戊辰戦争敗戦の年に生まれ、東北人の立身出世を阻む藩閥政治に嫌気がさした点では、盛岡出身の新渡戸と共通点がある。ただ新渡戸は東北人でも、英語を学び「国際社会」欧すなわち欧米社会に出てゆき、社会的地位と名誉をおさめ、国際人として脚光を浴び、日本を「祖国」と再認識して「武士道」を著した例外的エリートであり、「表の人間」である。
 一方、大陸に活路と夢を見出して中国語を学んだ津軽人、山田良正にとって、「日本」という国家は自分の忠誠を誓うにたる祖国ではなかったかもしれない。つまり「津軽」という国を生まれながらにして失った彼は、自分の理想を実現できる「祖国」を外に見出したのかもしれないのだ。そもそも欧米ではなく東亜に注目する時点で「裏の人間」である。
 新渡戸は武士道で最高の徳目を「忠義」であり、その先にある「名誉」であるとしている。一方、山田は忠義を誓うべき主君も国家もなかった。そこで自分の一生を捧げるべき対象として、孫文と中国革命を選んだのだろう。
彼のふるさと、弘前の貞昌寺には、彼を顕彰する石碑がぽつんとたてられている。観光地でもないので訪れる人も少ないようだ。世間的な「名誉」という点では、かつて5000円紙幣の肖像画にまでなった新渡戸とは雲泥の差だ。
しかし「武士道」を世界に紹介した新渡戸よりも、「武士道」を実践した山田良政のなかに、むしろ「武士道」の姿が生きているように思えるのだ。

⑦忠―廃帝の「幻影」にまで忠誠を尽くした工藤忠
 
津軽の「じょっぱり」のなかには、数奇な運命をたどった「皇帝」の「忠臣」がいた。その名は工藤忠である。彼も郷土の陸羯南(くがかつなん)の影響を受け、「裏の英雄」、山田良政に憧れた大陸浪人といえよう。辛亥革命後の第二革命に参加し、大陸での足場を固めた彼は1932年に満洲国が成立すると、「皇帝」愛新覚羅溥儀の侍衛長にまで昇進した。
 関東軍もその他の日本人も、溥儀を傀儡の皇帝としてしか見なかったが、工藤だけは実の主君として溥儀に忠誠を誓った。「忠」という名も、彼の忠誠心を感じた溥儀によって与えられたものである。
 工藤は地主の子であり、士族ではない。しかし大正デモクラシーを経験した時代の人物でありながら、その生き方は古風な武士道を重んじていた。新渡戸も「武士道」は武士のみの専売特許ではなく、庶民にまで広がっていた、と述べているが、農民階級の工藤が溥儀に忠誠を誓ったのもそれを証明している。

東京裁判中の溥儀と工藤
 戦後、溥儀が東京裁判で日本にやってきたとき、工藤は日本の満洲国侵略の証言者として召喚される予定だったらしいが、彼が証言するとむしろ溥儀の弁護に心血を注ぐ恐れがあったため、証言者とならなかったという。溥儀の側近中の側近の日本人として、満洲国の裏も表も知りぬいている工藤が召喚されなかったという点からしても、この裁判があくまでも「勝てば官軍」的なものであることがよくわかる。
 しかし彼は先帝に一度でもお目通り願いたく、一記者として裁判を傍聴した。被告として法廷に立たされている主君をみると、懐かしさがこみあげるとともに、いたたまれなかったに違いない。長い法廷の一日が終わると、彼は門で主君の出てくるのを待ちつづけた。そしてようやくソ連に監視されつつ出てくる溥儀に、ただ深々とお辞儀をしたという。世間的に見れば傀儡国家の廃帝の幻影にすぎないかもしれないが、彼にとっては唯一無二の忠誠を尽くすべき存在だったのだ。

「武士道」不遇の時代
 新渡戸の「武士道」も、戦後はその株を急落させた。戦時中のスローガン、例えば「欲しがりません、勝つまでは」は、新渡戸の述べる「克己」の、「進め一億火の玉だ」は「勇」の、「本土決戦一億玉砕」は「桜の潔さ」の表れとして見られる。その結果「武士道の精神こそ大和魂であり、日本人たるもの竹槍を持ってでもB29に立ち向かえ!」という反科学的精神論の諸悪の根源とされたのだ。
 GHQは剣道や柔道だけでなく、「武士道」で絶賛する歌舞伎の演目「忠臣蔵」の上演まで禁止した。忠誠心の証明のために仇討ちをしたとされる赤穂浪士を野放しにすると、いつ米国が「仇討ち」という名のテロ行為を受けるか分からないからだろう。
 工藤の立場も全く同じである。満洲国華やかなりし頃、彼はふるさと津軽の板柳町に「凱旋将軍」として帰省したことがあった。町じゅう総出でこの「郷土の英雄」を歓待したという。しかし敗戦とともに満洲国が崩壊すると、彼はふるさとに居場所を失い、夫婦ともに千葉県に移住した。敗戦により時代の空気がいっぺんに変わってしまったのだ。

板柳の民宿兼資料館「工藤忠閣下生家 皇帝の森」
 板柳のリンゴ畑の近くにある彼の生家が資料館兼民宿をしているというので、宿泊したことがある。質実剛健な雰囲気あふれる古民家を改装したところで、八畳の和室が二つ続く大広間が資料館となっており、工藤の来ていた礼服など、各種資料が保存されていた。その名も「工藤忠閣下生家 皇帝の森」である。
 これほどの資料が遺族により守られているだけで、行政が支援しないというところに、戦後の地元が工藤をどのように扱えばよいのか苦慮していることがうかがえる。彼を英雄としてみなせば満州国の肯定=侵略の肯定と受け取られかねないからだ。
 時代の流れによって人々の価値観も変わりうる。しかしどんなに時代が変わっても、ぶれることなく不器用なまでに廃帝の「幻影」に忠義をつくし続けたこの津軽のじょっぱりのなかにも彼なりの「武士道」が生き続けていたのだ。

⑧義―津軽海峡を越えた会津藩士たち
 
同じ青森県といっても、西側の津軽と東側の南部地域は気候的、言語的、文化的にも大きく異なる。「南部」とは方角を表すのではなく、中世から幕末まで南部氏が治めていたためこのように呼ばれる。その南部地域でも北側の下北半島は、かつて「不毛の地」とされる荒れ地で、明治初期にここを開墾した人々の中にのは戊辰戦争で敗北した会津藩士たちも少なくなかった。彼らは新政府によって住み慣れた会津を追われると同時に、この不毛の地を与えられ、廃藩置県の数年前、「斗南(となみ)藩」と銘打って入植がはじまったのだ。
 着の身着のままで下北半島にやってきた彼らは、まず住む家もなく、冬を過ごすための薪もない。飢えと病にさいなまれ、津軽海峡を越えて北海道に再移住する者もいたという。しかしそのような中でも地元の人に学問を教え、「文化の伝道者」としての役割を果たしつつ開墾してきたのも旧会津藩士たちである。
 むつ市の大湊には、新潟港から移住しに来た彼らが到着した船着き場や、旧斗南藩史跡の公園が残され、近くには彼らの集団墓地もある。そして彼らが開拓して酪農を行った三沢市には道の駅「斗南記念観光村」ができており、彼らの苦労の日々が偲べるようになっている。

「明治維新」150年記念でよかったのか?
 2018年は長州=山口県出身の安倍内閣の時代だった。そのとき政府は「明治維新150年記念行事」を各地で催したが、北日本各地では事情が異なった。私はこの年、斗南藩の史跡の所々で「義の想い、つなげ未来に」という会津若松商工会議所の幟が立っているのを見た。
 同じ年、津軽海峡を越えた函館五稜郭では、「義は我にもある」というタイトルの戊辰戦争の史跡を紹介するパンフレットを見かけた。武士道の徳目の中でも大切にされる「義」。会津や奥羽越列藩同盟はそれを否定され、朝廷に逆らう逆賊とされた。まさに「勝てば官軍」である。そして安倍政権は北日本の人々の気持ちを知ってか知らずか各地で「明治維新150年記念行事」を行ったのだが、北日本では「戊辰戦争150年記念行事」を行った。21世紀になってもこの認識の断絶は埋まっていないことが証明された。

「不器用な」東北に生きつづける武士道
  「武士道」を世界に知らしめた新渡戸を批判的に見つつも、彼のふるさと東北の近代遺産を見るにつれ、周りの価値観に合わせて社会的地位を築いたのではなく、あくまでも自分の大切なものを守り通して身を亡ぼす「不器用な人々」の中に、かえって武士道が生きてきたことを感じてきた。
 新渡戸の生まれたころには幕藩体制があり、藩のために生き、藩のために死ぬのが義であった。新渡戸が大人になると、藩の代わりに忠誠を誓う対象が天皇であり、国家になった。武士道は「精神遺産」としてもてはやされ、利用された。しかし戦後はそのことへの反省か、武士道はタブーとなった。とはいえサラリーマンたちの忠誠の対象は会社という形で残った。
 そして今、武士道があるとしたら、それは藩や国家や会社など、他律的なものではなく、たとえ不器用ではあっても自分で選んだ道に忠実に生きることにあるのではないか。その意味でも武士道は今なお生きている。
 東北の新渡戸が、「武士道」の中で戊辰戦争のことについて触れなかったのは、口にできないほどの辛い人生を負ってきた同郷の人々のズーズー弁による叫びを、格調高い英語で述べることの強烈な違和感を知っていたから、もしくは語りきれないことを知っていたからかもしれない。
そのようなことを考えつつ、この北国の地から南に、家路をたどった。(了)

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