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「代表的日本人」のふるさとをめぐる  -内村鑑三を形作った人々

    
① 西郷さんと桜島

なぜか「非モテ」の西郷さん? 

本州から鹿児島に行くときはできれば飛行機で行きたい。鹿児島空港につく前に空中を旋回するが、晴れた日に窓側の席を予約すれば北に霧島、真ん中にカルデラの錦江湾、そして南に薩摩の心を体現するかのようにそびえる桜島がのぞめるからだ。
 薩摩と言えば西郷隆盛。内村鑑三が明治後期に英語で著した「代表的日本人」の筆頭に挙げられていたのが、彼にとっての同時代人である西郷さんだった。ネット上の「幕末の志士人気ランキング」を数種類見てみてみると、西郷さんは坂本龍馬と人気を二分することがわかる。本書が出版されて1世紀以上経つ今でも通用することからも、内村が彼を日本人の「代表」としたのは、妥当である。本書がジャパノロジーの古典として読み継がれてきたのも納得だ。
ちなみに興味深いことに女性限定の同様のランキングを見ると、西郷さんはランキング外だったりする。これほど人気に男女差がある歴史上の人物も珍しい。大河ドラマの中の西郷さんは、ウドの大木のような図体、熱く燃える何かがあっても滅多に口にださず、つかみどころがなく、頭の回転が速そうには見えないが、物事の本質をつかむのに長けていて行動すると天地を揺るがす人物として描かれがちだ。
そんな西郷さんを偲ぶ人々は、彼が祀られる南洲神社に参拝する。しかし私はあえてそこを訪れたことがない。人々の西郷さんを想う気持ちは伝わるが、なんとなくそこに西郷さんはいないような気がするのだ。西郷さんはシャイなのか、みなが自分を神格化して拝みに来るようなとこからはこっそり抜け出しそうな気がするからだ。


磯庭園からみる桜島に西郷さんを見た!

ところで、一般的に鹿児島市内随一の観光名所というと、島津氏の別邸である磯庭園(仙巌園)から眺める桜島ではなかろうか。日本庭園では背景となる山を借景とする。庭マニア的視点で恐縮だが、ここは桜島が借景というよりも、庭の主人公そのものである。そして磯庭園はその主人公を美しく見るための「舞台装置」にすぎない。園内には池もあるが、ここは錦江湾を池として、桜島を築山とするダイナミックな庭といえよう。
桜島は、時には煙をたてながらどっしりとあぐらをかいてこちらを見てくる。桜島に見られながら、ふと思った。あ、ここに西郷さんがいた…。そう思ってみると、見れば見るほど桜島が西郷さんのように思えてくる。
時に噴煙を上げるが、それは桜島が爆発したくてするのではなく、中のマグマが限界を超えて引き起こすのだ。ちょうど征韓論に敗れた不平士族たちが西郷さんを担いで決起した時のように。桜島が噴火すると、西郷さんの魂が今の社会に警告を与えているように思えてくるのは私だけだろうか。私は桜島に西郷さんの姿を投影しないではいられなくなった。

城山と桜島と天

西郷さんの面影を求めて、西南戦争の際に西郷さんたちがたてこもった城山にあがった。眼下には薩英戦争、西南戦争、太平洋戦争などで焼かれるたびに復興を遂げてきた城下町が広がり、その向こうに錦江湾を隔ててずんぐりむっくりの桜島が見える。これまでは火山部分にばかり気を取られていたが、ここから見ると火山の上の空―天にも目がいくようになった。
「天」。上野の西郷さんの銅像のレリーフに「敬天愛人」という彼の座右の銘が彫られているのを思い出した。奄美群島への二度にわたる島流し。江戸城無血開城。「征韓論」による下野。西南戦争。彼の人生の大部分は主体的に動いたというよりも世の流れや空気の動きに応じて動かされていたように思えた。しかし彼は流されていたのではなく、「天命」をじっと聞き、それに従ったに過ぎない。そしてその「天」と「人」、すなわち民をつなぐ立場にあるのが自分であることに気づいていたのだろう。
改めて見てみると、桜島=西郷さんは、天と市街地=人々をつないでいる。天命を受けて人々のために生き、死んだのが西郷さんだったことに、いまさらながら気づいた瞬間だ。

クリスチャンの天と西郷の天

城山を下りると、道沿いに西郷さんたちがこもった壕があり、さらに行くと彼の終焉の地がある。そこで彼は東方を向いてひざまずき、頭を下げ、首を打たせた。東にいる天皇に騒動を起こしたことを詫びたといわれるが、焦土と化したふるさとを見下ろす桜島と天に、最後のお別れをしたのではなかろうか。
彼を「代表的日本人」の筆頭に挙げた内村は、クリスチャンである。とはいえ「無教会派」すなわち教会を通してではなく、自分と内なる天とが直接つながるという考えを持っていた。確かに東洋人の「天」は宗教団体を通さず、自分と天が直接つながる。日本人に「あなたの宗教はなんですか?」と聞かれると返答に困る人が多いようだが、それでも「天に見られている」という考えを持つ人は少なくないだろう。 
実は「代表的日本人」に選ばれた五人はデータに基づく客観的基準で選ばれたわけではない。著者である内村が、クリスチャンになる前の自分を形成してくれた五人の人物を挙げたのである。しかしそのなかに、詳細は異なれどもクリスチャンと共通する「天」の存在を直接教えたのが、彼の同時代人だった西郷さんだった。
今度鹿児島に行くときも、飛行機で向かいたい。それは「天」の立場から人々(市街地)を守る西郷さん(桜島)を見たいからに他ならない。
私の「代表的日本人」のふるさと巡りは、このようにして始まった。

②上杉鷹山の分身たち―米沢
上杉鷹山を知らなかった私と日本人記者たち


大学時代に「代表的日本人」(邦訳)を読むまで、私は上杉鷹山という人物を知らなかった。18世紀後半、寛政の改革の時代に活躍したこの米沢藩主のことは、もしかしたら高校時代に日本史の授業で学んだかもしれないが、それほど心に残る人物ではなかった。大河ドラマはもちろん、時代劇でも常連の人物でないこの人物は、「ピンとこない」どころか全く知らなかったのだ。「代表的日本人」の中でそのような人物は鷹山だけであった。
 しかし英米語学科に籍を置いていた私が「代表的日本人」を知ったのも、今思えば鷹山がきっかけだった。1963年にケネディ大統領が就任した際、日本のマスコミに「日本で尊敬する政治家は?」と聞かれて「上杉鷹山」と答え、その場にいた日本人記者たちを狼狽させたという。その場で鷹山を知っている者がいなかったからだ。ケネディも内村鑑三の著作を読んでいたからだろう。だから日本を英語で発信することに当時から関心のあった私は、ケネディの逸話がきっかけでこの著作を知り、鷹山という人物を知ったのだ。

倒幕の西郷、再建の鷹山―ともに「天」を見ていた
 

「代表的日本人」の筆頭に挙げられた西郷隆盛は、旧体制を倒すのに才能を発揮したが、新政府を作るのには適さなかった。「適材適所」という言葉の重みを知っていた彼だから、あえて新政府にしがみつかなかったのかもしれない。
 一方の鷹山は、わずか15万石でありながら、藩祖のころは120万石だったため、そのころの大盤振る舞いの癖が抜けきれずに巨額な負債を抱えて顧みない米沢藩に養子として来た。たとえていうと手取りで月収120万円だった人が15万円になったにもかかわらず、120万円のころと同じく湯水のように金を使っていたようなものだ。
 彼は財政改革の前に意識改革を行った。贅沢をやめさせるため、自ら絹ではなく木綿の着物を着、三度の食事を粥にすることで、上に立つ者としてのあるべき姿を示した。もちろんこんなことをしても焼け石に水であったろう。しかし人々に改革を断行する上での覚悟を示すと同時に、飢えに苦しむ領民とともにあることを示さなければならなかった。そしてそれは藩内の武士だけではなく、自分を藩主とした「天」に対しても示す必要があったのだ。
 倒幕の首領としての西郷。財政再建の藩主としての鷹山。ともに自らの存在を、天と地(民)をつなぐ役割をしているにすぎないと考えていたに違いない。

駅前はシャッター街

2015年の初夏に、初めて米沢を訪れた。上野を発った山形新幹線は2時間あまりで米沢駅に着いた。私は鷹山を顕彰し、それを受け継ごうとする地元の人々が、どのような街づくりをしているか気になっていた。 
大きな町ではないが、町の大小よりも気になったのは、駅からレンタカー店舗までの数百メートルの間がほぼシャッター街だったことだ。おそらく昭和の頃は繁栄していたろうが、その形跡を見つけるのも難しい。車を借りて米沢城跡に向かっても、市街地に活気は見られない。どうしたのだろう、この町は。
米沢城跡は上杉神社となっており、藩祖上杉謙信が祀られている。境内には鷹山の立像もある。明治時代の一時期には鷹山もここに祀られていたが、現在は城址内の松(まつ)岬(がさき)神社に移されている。入口には別の鷹山の銅像が正座をして出迎えてくれた。同じ人物の立像と座像が同じ敷地内にある例も珍しい。人々の鷹山公に対する思いが感じられる。

上杉博物館

「洛中洛外図屏風」の華麗さと現実のギャップ

隣接する上杉博物館は、実に立派な現代建築である。中に入るとまず能楽堂があるのが驚きである。鷹山の倹約イメージから、質実剛健で武骨なお国柄かと思えば、能を楽しむ余裕もあったとは意外であった。
この博物館の最大の見ものは狩野永徳が描いた「洛中洛外図屏風」である。かつて織田信長が藩祖上杉謙信に対して贈答したというこの金、黒、茶色を基調として描いた豪華絢爛な六枚からなる屏風に2500人もの生き生きとした老若男女が描かれており、往時の京都の様子が手に取るようにわかる。この濃絵(だみえ)の風俗画を細かく見ていくと、人々の様々な表情やしぐさが面白く、北宋の都、開封の繁栄を生き生きと描いた中国美術史上の傑作中の傑作「清明上河図」を思い起こさせ、時を忘れて見続けた。
逆にいえば、このような華麗な文化をもつ米沢藩だっただけに、かつての栄光が忘れられず、石高三万石に満たない日向高鍋藩から養子としてやってきた鷹山の大改革に対して、あからさまに水を差す家臣たちもいたのだろう。

「梨源郷」置賜(おいたま)

旧米沢藩領であった山形県南部を「置賜(おいたま)」という。鷹山の逝去から半世紀余り経った1878年夏、一人の英国女性が置賜を旅した。紀行作家イザベラ・バードである。「日本奥地紀行」として外国人未踏の東北や北海道を通訳ガイドとともに歩いた彼女だが、置賜に対する評価は極めて高く、「東洋のアルカディア(理想郷)」と呼んだ。鷹山の死後半世紀たっても、農業中心ののどかながらも地に足の着いた豊かな村落が続いていたのだろう。
南陽市のハイジアパーク南陽という日帰り温泉施設には、彼女にちなんで「イザベラ・バード記念コーナー」が併設されている。周辺は果樹園が広がり、ラ・フランスの収穫直前だった。そののどかさに、バードのみた桃源郷ならぬ「梨源郷」の姿を重ね合わせた。
米沢に着くや、シャッター街を目の当たりにしたが、なにも商店街の繁栄だけがその土地の豊かさを著しているわけではない。隣の南陽市ではたわわに実ったラ・フランスを見ることができたし、さらに近くの道の駅では地元の果樹を使ったアップルパイなど、「おしゃれな女子受け」しそうなパッケージのものも売られていた。
農業の改革、特に商品作物の開発も鷹山が重点を置いた最重要項目であった。これは今でいうならば第一次産業で作ったものを第二次産業として加工し、第三次産業として販売する、いわゆる「六次産業」ではないか。そう、私が置賜で見たのは、現状を何とか打破すべく試行錯誤を重ねている、現代版上杉鷹山の分身だったのだ。

日本中に鷹山の分身を!

私は通訳案内士という仕事柄、その土地がインバウンドで稼げるか、という視点で見がちである。その面では米沢や南陽市などの置賜はまだまだである。しかし、付加価値の高いものを作り、または加工して売ることにより、インバウンドに頼らずとも暮らすことができれば、そのほうがここの人々にとって価値ある生き方なのかもしれない。
先述した通り、鷹山は自らを天と地(民)をつなぐ存在としてきた。そしてその精神を受けついだ地元の人々も、人口減少、ドーナツ化、超高齢化、そして地域の崩壊という現実に直面している。しかしこれに対し、地元の人々が自分自身を鷹山の分身と見立て、改革に取り組めば、事態の進行を食い止めることができるかもしれない。何千、何万もの鷹山が出現すれば、鷹山は本当の意味で「代表的日本人」になることだろう。
そしてこのことは米沢だけではない。今の日本のあらゆる自治体が財政面に関しては「二割自治」「三割自治」であり、永田町・霞が関に「おんぶにだっこ」である。この事態を打破すべく、日本中に鷹山が生まれる契機になればと思うが、私にできることはやはりインバウンドによる振興であると改めて思いなおした。

③中江藤樹の教え子たちと伊予大洲・近江高島
理=メカニズム志向の朱子学


「陽明学」。主流が嫌いで反体制に憧れがちな私には、実に魅力的な響きのある学問の流派だ。「代表的日本人」の中で内村鑑三が日本陽明学の祖、中江藤樹を選んだという事実は極めて興味深い。これはいわば「日本を代表する政治家は?」と問う外国人に、自民党員ではなく共産党員かれいわ新選組の人々を紹介するようなものだからである。彼を紹介する前に、まずは儒学の流れについてまとめておきたい。
そもそも儒学の本流は紀元前の孔子や孟子であるが、それを修身や治国のシステムとして体系づけたのは宋(12世紀)の福建人、朱子だった。「日中韓とも儒教を共有している」などという場合の「儒教」とは一般的に彼の大成した「朱子学」を意味しているが、この学問で特徴的なのは、「理気二元論」と「性即理」だと思う。
朱子曰く、「この世のものは全て『気(≒物質)』と『理(物質を動かすメカニズム)』からなる。例えば、春になると梅が咲いた。梅の花そのものは『気(≒物質)』だが、寒い季節から暖かくなると梅が咲く、というメカニズムは『理』である。そしてメカニズムこそすべてのものを支配している。」
また、「性即理」とは、人間のもって生まれた「性(本質)」も、このメカニズムによって決まるという考えだ。だから、そのメカニズムに背かないように、自己を鍛錬し、学ぶことで、科挙に合格して行政に携わる「士大夫」となる。そしてその影響を一族から町中、国中に及ぼせば、世の中はよくなる、という。この朱子学は明朝と李氏朝鮮時代の国教となり、江戸時代の官学でもあった。 

メカニズムとは本当の自分の強い心!の王陽明

しかし明代(16世紀)の紹興に生まれ育った王陽明は、「心即理」、つまり「メカニズムというのは自分の心が決めるのであって、外部にあるものではない」、とこれに異を唱えた。また、「致良知」、すなわち自分が生まれながらに持っていたきれいな心(=良知)が曇ると、物事の判断基準やメカニズムも狂ってくる。よって常に心を磨き続けなければならないともいう。
曰く「もっと自分を信じろ。しかし独善に走らないためにも、学問をする必要がある。ただ、学問と言っても本の虫になるのではない。陽明学の「学問」とは日常の仕事に真剣に取り組むことによって学ぶことであり、がり勉による机上の空論ではない、実践的なものだ。これを「知行合一」という。そして怠けそうになったら思い出せ。山賊を退治することより、自分の弱い心を退治するのははるかに難しい。そうして鍛えた強い心こそがこの世のメカニズムや判断基準になるのだ。え?そんなので科挙に受かるかって?自分の心を正しく持たずに暗記ばかりしている奴は、運よく科挙に受かっても国をよくする士大夫にはなれない。心を磨き続ければ結果はついてくる!」
両者を極端に単純化したが、理知的な朱子に対して現場のたたき上げのオヤジ的な王陽明の特異さが際立つ。 

中江藤樹を知りに伊予大洲へ

中江藤樹は1608年、近江に生まれ、米子の義父のもとで1年過ごした後、伊予に転封となった父について十代を伊予大洲で過ごした。私はある年の暮れの雨の日に大洲を訪れた。中江邸跡地に建てられた大洲高校の中に、彼の徳を偲ぶ「至徳堂」があるというので訪れてみた。公立高校に儒教の施設があるのは極めて珍しい。さらに、高校生たちが見ず知らずのこのおっさんに、笑顔で挨拶してくれる。他の地域では胡散臭そうにみられるか、無視するのが普通だが、藤樹先生の心を受け継いだこの学校ではこれが普通なのだろう。 
彼の像などに交じって、正面の壁にしっかりした楷書で右から「知良致」と書かれている書がかかっていた。私の心に響いた。「チ・リョウチ!」。よく考えると不思議だ。私はたとえ古典であれ、中国の言葉を見ると中国語で発音する癖がある。しかし、その時は日本語の発音で心にずっしりと響いたのだ。

滋賀県高島へ

その後、別の年の晩夏の雨の降る日、藤樹のふるさと、滋賀県高島市を訪れた。実は彼は27歳の頃、独り暮らしの近江小川の母親を案じて帰郷したいと藩に願い出たが、受け入れられないまま脱藩し、故郷の母の下で暮らしたのだ。これは藩主に対する忠誠が絶対的であり、母親への情を優先するなどはもってのほかという当時、ありえない不忠だった。
しかし彼はその「常識」を疑った。自分の価値基準は四書五経にあるのではなく、もちろん世間にあるのでもない。学問をしてきた自分自身にある。その自分が「忠」という幕藩体制の倫理よりも一人ぼっちの母親を慕う「孝」を優先するのであれば、それが理=正しいことなのだ。世の人が自分を狂人といおうと構わない。その10年ほど後に、彼は陽明学に出会い、「心即理」という思想を知り、自分の正しさを確信したのだろう。
そこまでして帰ったふるさとだが、仕事はなく、刀を売って金を貸したりして生計を立て、私塾「藤樹書院」を運営して人として生きる道をふるさとの人々に教えた。
現在、藤樹書院は地元のボランティアの方々によって守られており、そこにも藤樹直筆の「致良知」という言葉が力強く書かれていた。私がこの言葉をみると、中国語発音ではなく「チ・リョウチ」という日本語になるのは、陽明学を中国思想というより日本に根付いた思想として受け止めているからなのだろう。

武士の心にすんなり溶け込んだ陽明学

それにしても16世紀の王陽明の思想が、海を越え、500年の時代をこえて四国や琵琶湖の片隅に生き続けているのが感動的だった。そればかりではない。彼の思想は19世紀に日本を変える原動力となった。1837年に幕府の腐敗に業を煮やして大坂で挙兵しかけて失敗した大塩平八郎。幕末に萩の松下村塾にて尊王攘夷と倒幕運動を実行する俊才を教育したり、黒船に乗せてもらうように交渉したりして失敗し、処刑された吉田松陰。江戸幕府を無血開城させ、新政府の中枢となったが征韓論で下野して西南戦争で亡くなった西郷隆盛。彼らもみな陽明学者だった。そして体制を変えようと命を懸けたが、結果的にはみな失敗した。その結果はともかく、少なくとも19世紀半ばの武士たちには、陽明学が受け入れられる素地があったのだ。
一方、中国でも台湾でも韓国でも、陽明学は朱子学に対抗するほどの支持を受けてはいない。わずかに「知行合一」という成語が知られている程度だ。なぜ海を越えた日本の地で彼の思想が受け入れられたのだろうか?
私はその理由が、がり勉の暗記を否定し、仕事を通して日常生活すべてから真理を学ばせるという陽明学の学び方、そして象牙の塔にこもらず、各地の反乱軍を平定してきた「文武両道」の王陽明その人にあると考える。

内村鑑三も陽明学者?

このように考えると内村鑑三が「儒学の異端児」陽明学者の彼を「代表的日本人」の五人の一人として選んだのも理解できる。科挙に受かることが前提で、自分の生活とは関係の薄い事柄を必死に詰め込まなければならない中国や朝鮮とは異なり、日本では一部のエリートを除いて身の回りの暮らしから学ぶことを重んじ、また基準やメカニズムを権威ではなく自分自身に求めよ、という声は時代をこえて広がった。そしてそれを日本に根付かせたのが中江藤樹だったからである。
さらに、内村の中でも中江藤樹の陽明学が彼を突き動かしたことが何度もあったにちがいない。例えば1890年に第一高等中学で明治天皇の御名のある教育勅語に対し、クリスチャンであるという宗教的理由から最敬礼をしなかった。非難ごうごうの中、彼は教職を辞することになった。また、日露戦争の際にも、宗教的理由から万(よろず)朝報(ちょうほう)に「非戦論」を掲載して非国民扱いされ、同紙を去った。このように教育勅語に最敬礼をしたり、戦争に同調したりという周囲の「空気」に流されなかった彼を支えていたものが、陽明学の「心即理」であり「知行合一」だったのではなかろうか。


④二宮尊徳と小田原・下野桜町
ツッコミどころ満載の子役、金次郎少年

「子役イメージ」が強すぎる人物といえば、一休さん、江戸川コナンとならんで二宮金次郎が挙げられるだろう。昭和50年代に私が通った小学校には、さすがに薪を背負って歩きながら本を読むあの少年の像はなかったが、1997年に勤めていた中国山地の小学校の校門では、まだあの石像が毎朝子供たちを出迎えていた。
質素・倹約・勤労・勤勉が教育の根本にあった戦前は正に国民的な手本だった。学校ではならったことはないが、大正生まれの祖母が「て~ほん~は、に~のみ~や きーんじーろおー」という歌を何かの折りに教えてくれたことを覚えている。
ちなみに私が初めて本物の二宮金次郎像を見たのはロサンゼルスのリトル・トーキョーだった。一旗あげるべく海を渡って勤勉、節約を重ねて生活を安定されたと思ったら日米戦争が勃発して収容所に送られ、人種差別の中、米軍のために戦うという日系二世の命と引き換えに合衆国に対する忠誠心を証明し、戦後はまた一文無しから頑張ってきた彼らが心の拠り所にしたのも、二宮金次郎の精神だったのだ。
ところで現代的視点から見ると、子どもを働かせることは人権無視、歩きながらの勉強は歩きスマホを許容しかねない、勉強だけではこどもの個性が伸ばせない、派手に金を使わないと景気は回復しない、などとツッコミどころ満載である。
しかし明治時代という時代を反映してか、内村鑑三は「代表的日本人」の五人のなかに、大人になった「二宮尊徳」を入れている。彼は単なる「子役」から脱皮して、疲弊した農村や諸藩を立て直した極めて有能な地域振興コンサルタントとして活躍していたことは、地方行政や経営に携わる人以外にはそれほど知られていないようだ。彼の遺徳をしのびに、彼のふるさと小田原に向かった。

故郷小田原での青春

小田原城内に報徳二宮神社がある。私はおそらく160カ所ぐらい城郭をまわってきたが、藩主でも藩士でも、悲劇の英雄でもない人物を神格化した神社が城内にある例は、他に聞いたことがない。境内にはもちろんあの「子役時代」の像がたっているが、台座にしめなわが張ってある。ここでの金次郎はご神体そのものなのだ。
幼くして両親を亡くした彼は親戚の家に預けられたが、労働ばかりで勉強させてもらえなかった。百姓として地に足の着いた暮らしをさせるため、という「愛のムチ」だったかもしれないが、そのため本を読むにも薪を背負いながら、となった。その家も没落していこうとしたが、質素・倹約を心掛け、改革を施した結果、まずは家を再興した。
そのうわさを聞き付けた小田原藩主の大久保氏は、破産寸前だった家老服部氏の家を再興させた。農民の彼が行う改革は、摩擦を生んだが、財政を立て直すよりも難しいのは、これまで散漫だった経済感覚を捨て、倹約と増収に努めるという「意識改革」であることを、身をもって知った。王陽明はこれを「破山中賊易、(さんちゅうのぞくをやぶるはやすく、)破心中賊難(しんちゅうのぞくをやぶるはかたし)」と言っている。

桜町での苦悩

さらに藩主は、小田原藩の飛び地であった下野(しもつけ)桜町(現栃木県真岡(もおか)市)の疲弊した農村の再建を二宮尊徳に任せた。同じ農民同士、理解し合えると思ったからだろう。中途半端な仕事を潔しとしない彼は、家族を説得し、桜町に骨をうずめる気で財産を売り払って移住したのだ。まさに不退転の決意である。
勤勉・勤労とはいえ、彼は単なる真面目くさったがり勉ではない。土地の現状を詳細に調べるためのデータベース作成からはじめ、数値に基づいて村の問題をあぶりだそうとした。感情(パッション)だけでも勘定(データ)だけでも公共事業はできないのだ。
一方、この村の農民たちは酒ばかりで仕事をしない。その理由として年貢が高すぎてやる気をなくし、自暴自棄になり、仕事をしないことにあると考えた彼は、藩に掛け合って年貢を下げさせた。
倹約だけでは焼け石に水。まだまだ田畑を増やす余地があるとわかった彼は、作業にかり出した農民にポケットマネーで褒美を出したりして、「これまで役人とは違う」と思わせるなどするうち、支持者が少しずつ増えてきた。
しかし一部の「造反派」を抑えきれないことを苦に、彼は何も告げずに蒸発した。そして成田山で不動明王を拝みながら内省を続けた。これまで農民と同じ立場で接してきたつもりだが、周りからは農民でありながら主君大久保氏の「虎の威を借る狐」として百姓を見下ろしていると思われていたことに思い当たった。
また、質素倹約という「自助」のみならず、倹約した余剰を積極的にみなに与えることで、貧困者を助ける「共助」の精神に思い至り、それを「報徳」とした。天地の徳のおかげで作物ができたので、余ったものをみなで分ける、とうことこそ、その徳に対して報いる、という考えだ。いわば相互扶助をすることこそ天地の徳に対する恩返し、とでもいおうか。彼は名実ともに二宮「尊徳」だったのだ。
これらの考えに基づく一連の改革の意味を周知させるために、地元の神社仏閣や名主の家などで説明会をひらいて協力を仰いだ。その結果、桜町は豊かな村になっていった。地元には二宮尊徳資料館を開いて、彼の「徳」を偲んでいる。

修身斉家 治国平天下

桜町での改革に成功した彼は、小田原に戻されて藩政に参加した。中でも有名なのが、1830年代半ばの天保の大飢饉の際、農民の彼が備蓄米の米蔵を開けてもらえるよう、直談判して受け入れられた事実だ。蔵の米はお上のものではなく納税者である百姓からの預かりものであるという信念がなくては、できないことだったろう。
しかし全ての人には行き届かないとわかったため、世帯ごと三段階に分け、困窮度合いが中度、軽度ならば度合いに合わせて資金を募り、藩の米と合わせて重度の困窮者に粥を与えた。ここに生きていた思想も「報徳」という名の相互扶助型協同組合である。
さらに彼は後に幕府のコンサルタントまで行うようになる。異例の大抜擢だ。
彼の人生を見ていくと、労働の合間に熟読した四書五経「大学」のある根本理念に沿って生きているのが分かる。それは「格物致知 誠意正心 修身斉家 治国平天下」というものである。朱子学と陽明学、そしてその他の流派によって解釈は異なるが、私なりに解釈すると、それは学ぶ目的の順序である。
①ある事柄にしっかりと取り組むと、他分野とも共通する真理が分かってくる。
②それによって、天にも通じる本当の自分を見極める。
③真理を習得した本当の自分の在り方を見極めた自分がそれを一族に伝える。 
④それを国中に広めれば、世の中は平和が訪れるだろう。
という、学問を学ぶ上でのガイドラインといえる。
彼は農作業を通して天地に学び、その合間に学問をし、天地の恵みを天地の「徳」であるという真理に到達した。それによって一家を再興し、小田原藩をも再興した。彼を動かしたのは、辛い労働の中でかみしめながら覚えたこの十七文字の漢文だったに違いない。
 そして彼の生き方から察するに、学問を突き詰めて見出した本当の自分こそ真理、という「心即理」や、本を読むだけでなく体を動かしながら学ぶ「知行合一」など、を唱えた陽明学と相通ずるものがある。内村鑑三が考える「代表的日本人」とは、学者ではなく社会運動家に近いのかもしれない。
 
一円札と子どもたち
 

小田原市の郊外には、二宮金次郎の生家が移築されており、隣接地に尊徳記念館も建てられている。ビデオや実物大の人形、遺品などを見ながら彼の一生を知ることができるが、その中でも気になったものが二点あった。まず、老成した尊徳の肖像画をあしらった1円札を見たが、それが1946年、つまり敗戦の翌年で、GHQの支配下にあったころに発行されたということだ。戦時中は質素倹約=「欲しがりません勝つまでは」的な国民的モデルとされた彼だったので、GHQから排除されてもおかしくはないが、彼が肖像画になることに対してGHQは許可している。おそらく「立て直しのプロ」としての彼の在り方と手腕をGHQが知っていたとしたら、彼らも「代表的日本人」を読んでいたからに違いない。
また、「尊徳学習」と題して、市内の小学生がこの故郷の先人の偉業をたたえる地域学習の展示も目を引いた。クイズ形式や双六、かるた、絵本など、様々な形式で郷土の偉人を讃えている。その精神を受け継いで、子どもたちがこの少子高齢化や天変地異等、そしてコロナ禍などで破綻寸前の日本を救ってくれる糸口を、尊徳の教えから導き出してくれることを願わんばかりだ。 

⑤東日本人、日蓮のふるさと、安房
鎌倉仏教指導者の出身地

 

 「代表的日本人」のなかでフィナーレを飾る人物は、日蓮である。クリスチャンだった内村鑑三だが、彼が最も感情移入したのは他宗派を排撃しまくっていた日蓮だったということが本書からうかがえる。内村は鎌倉新仏教が栄えた12世紀から13世紀にかけての日本の宗教界を「日本の宗教改革」とたとえている。仏教が日本に伝わったのが6世紀とすると、その後700年にわたって仏教徒は王侯貴族、そして僧侶の専有物だった。それが庶民のものとして根を張りはじめた、という意味で、彼は「日本の宗教改革」と呼んだのも、あながち間違いではない。
 鎌倉仏教には、武士など支配層の支持を得た禅(臨済宗・曹洞宗)と、庶民の支持を得た浄土教(浄土宗・浄土真宗・時宗)、そしてそれらのいずれをも批判する反体制の法華宗に分かれる。そもそも日蓮がこれこそ佛陀の真理とした法華経は、天台宗でいわば「眠っていた」経典だったが、それに新たに息を吹き込んだ人物こそ彼だった。
 上記の六宗派の中で、私が気になるのは各宗祖の出身地である。臨済宗の栄西は備中、曹洞宗の道元は京都、浄土宗の法然は美作、真宗の親鸞は京都、時宗の一遍は伊予である。つまりみな京都から西の出身者であるが、唯一東日本出身なのが日蓮だ。

日蓮のふるさと、安房小湊(こみなと)

 日蓮のふるさと、安房小湊に向かったのは、2月上旬だった。東京から東京湾アクアライン経由で木更津に向かう間ずっと肌寒く、コートに身をくるんでいたが、木更津でレンタカーを借り、南下して安房に入るころには暖かくなっていた。館山市に入ると椰子の実が並び、南国ムードである。さらに鴨川市に入ると、トンネル前に「日蓮交差点」という表示を見つけた。ここが日蓮のふるさとなのだが、神格化された偉大なる宗教者の名を交差点につけるという発想がユニークだ。「おらが村の日蓮さん」なのだろう。
 トンネルをくぐってから海側の道を戻ると、そこが彼の生まれ育った小湊である。潮風に2月の黒潮のしっとりした生暖かさを感じる。そのすぐ近くに誕生寺があった。読んで字のごとく、日蓮の誕生を顕彰して建てた寺院であるが、屋根の上に高さ1mはありそうな垂直のなまこ壁のような飾りが施されていて目を引く。境内には幼少期の銅像もたっている。幼名を善日麿とした日蓮はここで12歳までを過ごし、地元の霊山として名高い清澄寺にて修行したという。

清澄寺の二人の修行者
 

 小湊から10キロほど車を走らせた。最後の5キロぐらいは山道で、その終点が清澄寺である。小雨が降っていたわけでもないのにもやがかかっている。山の中は静寂が支配していた。歩いていくと巨木が並び、そのうちの大きな杉の木にしめなわが張られている。御神木なのだろう。いかにも修行にふさわしい場所だ。彼は、後に日本独自の教えを作り上げることになるが、その背景にあるのは山川草木全てに魂がある、という古神道的な世界での修行生活ではなかろうか。
 境内周辺を歩いてみると、意外な記念碑があった。極真空手の創始者、大山倍達が戦後間もない無名時代に山籠もりして空手の奥義を極めたのもここだったという。朝鮮人として朝鮮半島や満洲で育った彼は、後に満洲國を建国した石原莞爾の知遇を得て、大アジア主義者となっていった。その石原莞爾が傾倒していたのが「国柱会」という法華経を信奉する宗教結社だった。おそらくその関係もあり、彼は戦後の混乱期に修行の場としてここを選んだのかもしれない。
 それにしても興味深いのは、日蓮の教えは鎌倉幕府から迫害され、その後も幕府や皇室や藩閥などから支援を受けることはほぼなかったのだが、昭和の一時期にはその教えに基づく宗教結社が、日本ではなく傀儡国家満洲國の中枢に大きな影響を与え、十数年で国家自体が雲散霧消したことだ。反体制派が天下を取ったのが、傀儡国家だったというのは何たる皮肉だろうか。
本題に戻ろう。この山で善日麿は十代を過ごし、修行の毎日を送った。十六歳で本格的に出家し、蓮長の名をいただいた。彼の課題は、仏の教えは一つだけのはずなのに、なぜ禅宗や浄土教、密教など、様々な宗派に分裂しているのか。真理はどの教えなのかを明らかにすることだった。この霊山での修行も一段落し、日本中の秀才が集まる比叡山延暦寺を目指したとき、彼は二十代になっていた。

七難八苦の人生

 二十代を比叡山延暦寺で過ごした蓮長は、日本中の秀才とディベートを繰り返した結果、法華経のみが真理であるとの結論に至った。そして三十二歳でこの山に戻ってきて、ふるさとの人々の前で「真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊」、すなわち他のすべての宗派を邪道として否定し、ただ法華経のみがこの世を救いうる教えだとした。しかしその排他性を人々は容赦せず、わずかな弟子ができた以外は、ふるさとを石もて追われることとなった。「日蓮」と称したのはそれからだという。
 ここで気になるのは、何物をも包み込む太平洋を日々見て過ごし、八百万の神々であふれていそうなこの清澄山で修行した彼が、一神教的な非寛容さを貫いたことだ。
 そしてその後は鎌倉を中心に辻説法を続けたり、「立正安国論」を著して幕府にアドバイスしたりして法華経の教えを広め続けた。しかしその攻撃性が独善的ととられてか、他宗派からは反感を買い、また幕府の逆鱗を触れて幾度もの「法難」と呼ばれる絶体絶命の危機に襲われる。彼の三十代は伊豆半島の崖の下にある岩に置き去りにされたり、湘南では首をはねられそうになったり、佐渡に島流しになった時には小舟が沈みかけたりなど、まさに七難八苦の連続だった。
 五十三歳で許され、甲斐の身延山を拠点とするが、六十一歳の時に常陸に湯治に行く途中、武蔵の池上にて病没した。このように見ていくと、二十代に比叡山にいた以外は、彼は基本的に坂東とその周辺を中心に布教してきた初めての宗教家であることが分かる。
 
二つの“J”と二つの“H”

 大陸の影響を受けやすい西日本の宗祖たちとは異なる何かが彼に感じられるとすると、その一つに「国家意識」が挙げられよう。例えば彼はふるさとを追われてから「蓮長」から「日蓮」とした理由に、「安房の蓮長」から「日本国の日蓮」に脱皮したのではなかろうか。そして鎌倉幕府に対して提出した「立正安国論」も「安国」すなわち「日本国を平和に」という意味が込められている。さらに、佐渡で「開目抄」を著したときに「我れ日本の柱とならん」と、「三大誓願」の一つとして書いている。先述した「国柱会」もこの言葉から名付けたというが、いずれにせよ彼が他の宗祖たちと比べると格段に日本国を意識していたことは否定できまい。
 こんな日蓮を「代表的日本人」に取り入れた内村鑑三も祖国日本にこだわった。「二つのJ」を重んじるという言葉を彼は残しているが、これは“Jesus”と“Japan”を意味する。とはいえ、教育勅語に最敬礼をせず、「不敬罪」に問われたり、国民が熱狂した日露戦争に反対したりして「非国民」扱いされた彼であるが、神と日本の間で常に揺れていたのではないだろうか。これをもじっていうならば、日蓮は二つの“H”、つまり“Hokekyo”と“Hinomoto”の二つに人生を捧げたようなものだ。
 

内村と新渡戸の母校、北海道大学
 

「武士道」の新渡戸稲造と「代表的日本人」の内村鑑三。これら世界に影響を与えたジャパノロジーの必読書を書いた二人の母校は、明治時代の札幌農学校、すなわち現在の北海道大学である。
 初めて北大を訪れたのは、二十歳の初秋だった。沖縄から二か月かけて宗谷岬まで自転車で旅し、その後北大のキャンパスで5日間ほど野宿させてもらったことがある。毎年夏になると、日本中からサイクリストやツーリングで北海道を訪れる人が多く、当時はおおらかだったのか、大学の守衛さんに「旅の者ですが…」というと、見て見ぬふりをしてくれたものだ。四十代になってから再訪した時も、二十数年前のように自転車に荷物を括りつけた若者がウロウロしており、若き日へのノスタルジーが胸にこみ上げた。
大阪の大学のキャンパスとは打って変わって、アメリカのキャンパスがそのままやってきたかのような広い空間にポプラ並木が美しかった。西洋に追い付き追い越せという時代に、このような「日本のアメリカ」のような空間で英語だけで教育を受け、またキリスト教の薫陶を受けた彼らだったからこそ、かえって自分の中の「日本」を見つめなおし、世界の人々に語るべき祖国を見出したのだろう。 
 特に内村の「代表的日本人」は、世界に羽ばたく自分を形成した五人の人物により、日本人共通の心を著したものである。我々、特に通訳案内士などは、これにならって自分を見つめなおし、自分を形成した人物を五名考えてみると、外国人に自分がどのような人間であり、また日本人がどのような価値観を持つ人間かが分かるので興味を持って聞いてもらえることだろう。
 ちなみに私を形作った五人の人物は、今のところ以下の五名である。
・親鸞:ダメ人間から救ってもらえる、というありがたさ
・山中鹿介:自分の決めた道ひとすじに歩むひたむきさ
・世阿弥:「芸」の極意としての「花」の存在
・中沢啓二:平和の大切さと人間のたくましさ
・松本道弘:語学にも道があり、文化や社会から乖離した言語は無効という考え
 読者諸氏にもご自分の五名を考えてみることをお勧めして、旅を締めくくりたいと思う。(了)

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