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有名になれない事を35年かけて受け入れた

中学生の頃、私は大人になれば水川あさみか中谷美紀のような見た目に自然となっていると確信していた。しかし、驚くべき事に自分は自分のまま成長し歳をとり、すこし吊り目の美しい人になる事はなかった。
高校生の頃、自分は文才があると確信していたのできっと小説家か、最悪コラムニストか何かになってるもんだと思っていた。でも本格的な挑戦をしていた訳でもないので、なんとなくその夢はついえた。
そして社会人になった時、自分は薄々ブロガーとかにはなれるだろうと高をくくっていくつもブログを立ち上げ、1ヶ月もしないうちに書かなくなった。継続の難しさを自覚する事もなく、始めては終わるブログがいくつも乱立した。

そして今、
水川あさみでも中谷美紀でもない自分といて幸せだという夫と、ママ大好きと言ってくれる子供に囲まれて呆然としている。
作家になっている筈だった自分は、ママになっていた。それが凄いことだというのも分かっているけれど、それは一旦横に置こう。

自分はとりあえず歩んできた過去を見るに、きっと作家になれる国語力がないし、この文章も変なところだらけだろう。

このnoteもいつ続くか分からんし、多分続かないだろう。ぱったりとオサラバするし、急にアカウントが消滅するだろう。

ただ、昔と違うところは、それを受け入れているところだ。
私は有名になれない。
ブロガーにもなれないし、コラムニストにもなれないし、小説家にもなれない。文化人としてアフターシックスジャンクションにも出れないし(熱心なリスナーですらない)、もちろん本も出さない。バズらない(炎上はもしかしたらあるかもしれないけど)。
私はSNSでコミュニティを作れないからネットの有名人にも、映画の感想を書いてるだけで万フォロワーみたいな偉業もきっと達成しない。
その努力すらしない。

ただ、映画が好きでゲームが好きでお笑いが好きで手芸も時々やる。そんな、ただのママだ。

私はそれを自覚した。
長くかかった。35年かかった。

ただのママ。
その平凡で退屈な響き。
でもそれこそが素晴らしい人生なんだと今は思う。なんて幸せなことなのかと。

誰にも読まれない文章がインターネットの宇宙ゴミとして漂う。それでいい。
未来は誰にも分からない。
諦めたらそこで試合終了ですよ。と、メシア安西が言うが、
そうなったらなったで幸せ。ただそれだけ。
私は確固たる目標をもって行動しないまま、いつの間にかママとなって、今はそのママをなんとか成立させる事に必死だ。

みんな受け入れろとまでは言わない。
ただ、私は受け入れて結構幸せだ。

絶対有名になんかなれないんだよ!
それでいいんだよ。プレッシャー無くて案外楽だよ。やってみ。